晴天の霹靂

びっくりしました

『自転車日記』 ~付着せる漱石

kindle unlimitedで年代順に全部読めてしまううえにどれも面白いので、近頃は夏目漱石ばかり色々読んでいる。

 

子どもがお気に入りの絵本を持つように、決まった場所でアハハハと笑いたくてついつい繰り返して読むのが随筆『自転車日記』である。

英国留学時代、夏目発狂の噂まで出るような鬱状態で引きこもっているのを心配した友人によって当時最新流行の乗り物、自転車に挑戦させられた顛末が記されている。

 

文鳥・夢十夜・永日小品 (角川文庫)

文鳥・夢十夜・永日小品 (角川文庫)

 

 

ともかくもちょっと外へ出て運動でもしたまえということで、先達に誘い出されてまずは自転車屋へ行く。

女性用の自転車を勧められるのを退け、ギーギー怪しげな音のなる「いとも 見苦し かり ける 男 乗り」を入手して練習を始める。

平地では一向に前に進む様子が見られないために、坂の上へ連れていかれ、ともかくも下へ向かって、ススメーっ、と号令されるのだ。

坂となるとさすがに自然法則が働くので前進した。

ここが一番私の好きなところだ。

 

されど も 乗る は ついに 乗る なり。 乗ら ざる に あら ざる なり。 ともかく も 人間 が 自転車 に 付着 し て いる なり。 しかも 一気呵成に 付着 し て いる なり。

夏目 漱石. 文鳥夢十夜・永日小品 (角川文庫) (Kindle の位置No.3548-3551). KADOKAWA / 角川書店. Kindle 版.

 

アハハハハ。

ここで声を出して笑うために何度も読み返してしまう。

自転車に一気呵成に付着している夏目漱石、時に34歳である。

 

それにしても何度読んでも不思議なのは、ハンドルこそしっかり握っているものの「鞍に尻を下ろさざるなり。ペダルに足を掛けざるなり」とあるところだ。

尻と足が浮いてたら、いくら坂でもさすがに前進しないのではあるまいか。

一旦本を置いて宙をにらんで状況を想像するに、

漱石、吹き流しみたいになってんのか?」

という風景しか考えつかない。

いや、まさかね。

 

アハハアハハハハ、と何度も笑いながら読みながらがらしばらくしてようやく思い至った。

彼は、小さいのだ。

最初に女乗りの自転車を勧められたのは、一般の英国人向けにつくられた自転車では、尻をのせると足がペダルにつかないのではあるまいか。

しかし、彼は「軽少 ながら 鼻 下 に 髯 を 蓄え たる 男子」であるから、とそれを断って大きな自転車を選んでしまっている。

 

昔は子ども用自転車なんてものがなかったから、足の届かない自転車に乗るには身体を横にずらしてサドルを避けフレームの隙間から車体にまたがる「三角乗り」という乗り方をしたものだ、という話を、私は父母からよく聞いた。

漱石も、本来なら三角に乗ったほうがいいくらいサイズが合っていなかったのかもしれない。

片方の足をペダルの上にふんばって重力に任せて坂を下りはじめたら最後、もう片方の足も、尻も、倒れるまでどこにも届かないのではあるまいか。

 

帝大出のスーパーエリートとして国の期待を背負って英国へ赴いたはいいが、あまりの物価の高さに学費まで節約して一人下宿にこもって本を読み、

少ない資金から個人教授をつければなんだか寸借詐欺みたいな漠然とした扱いを受け、

道を歩けば見上げるような大男からの露骨な人種差別にさらされて、

下宿の粗末さにも寒さにもじっと忍の一字、

そんな中でもとにかく成果を上げて帰らんと孤独に肩ひじ張り続けた小男である。

 

その一方で、洋行に憧れ続けた病床の正岡子規から、ロンドンの逸話はおもしろいからぜひ書き送ってくれろとせがまれて、「もっとも不愉快な二年間」をこんなにもひょうきんな文章にして書き送っている。

そして漱石は神経と体力をすり減らして寿命を縮め、子規は再会を待つことなく死ぬ。

それらのことを思いあわせるとずいぶんといじらしい、やさしい随筆にも見える。

 

漱石がどんなに小柄で、どれほど自分の小ささを思い知りながら暮らしたかに思い至れば、自転車をめぐるこの珍妙な顛末はまたより一層面白い。

女性用の自転車を選べないほど男一匹と気張って暮らしていた偏屈の中にこそ、胃弱の文豪夏目漱石が居たのかもしれない。

 

あんまり顔の造作が立派なのでうっかり忘れているが、そういえば漱石は小さいのだ。

 

 

自転車日記

自転車日記

 

 

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白日の一気呵成にカラー咲く