今年は麦茶をお湯出しにしたので例年になく味と香りがはっきりしてうまく、飲むたびに少しうれしい。
耐熱ガラスのポットに麦茶パックと電気ケトルで沸かしたお湯を入れるのだけれど、当初ちょっと支障があった。
麦茶ポットより電気ケトルの方がだいぶ容量が小さくて、ポットの半分くらいのお湯しか一度に沸かせないのだ。
麦茶を入れるごとに二度もお湯を沸かす気にもなれないので、パックを多めに使って濃く出した後(小一時間でも数時間経ってもたいして構うこたない)パックを取り出したら満タンまで水でうめて冷蔵庫にしまうことにした。
これだと粗熱が取れるのが早くて、結果的に大変いい具合だ。
耐熱ガラスの肌に手の平を当てて熱のとれ具合を計っていると、なるほど本来これは「麦湯」なんだな、と納得する。
以前から古い話にはしばしば出てくる、街道の茶屋か何かで歩いてきた旅人に供される麦湯というものが、気にかかっていたのだ。
それは麦からできた何かなのか、麦茶のあついバージョンなのか、なんなんだ。
お湯で麦のエキスを抽出して飲料を作るようになってみれば「湯」というのは飲む時点での温度をさしているのではなくて、作り方をさしているのだということが合点がいくようになる。
そもそも、何かを煎じたものが「湯」なのだ。
当然沸かしたては熱かろうが、そのあとは勝手に熱が取れていって常温の飲み物になるのだろう。
井戸水かなにかでちょっと冷やす工夫でもできれば涼を取る贅沢はできたのかもしれない。
要するに私が作るこれは「冷やし麦湯」なのであるぞ、と思って飲むとなんだか急にオツに美味い飲み物に思える。
麦湯が出てくるのは何の話だったかしら。
茶店の年寄りと旅人のかけあいなら落語『猫の皿』あたりだろうか、と思って小三治で聞いてみたら、たしかに麦湯を飲んでいた。
仕草を見るに、冷たいものをごくごくという風にはぜんぜん見えないが、熱いものをふーふー、という風にも見えない。
朝煮出した麦湯といったあたりだろうか。
そんなことを考えながら聞いていたら、また新たなる難問に遭遇してしまったのだ。
話の冒頭である。
旅に疲れた道具屋が茶店に寄る。
じいさんが出てきてお茶にするか麦湯にするか聞く。
道具屋が答える。
「野暮なようだけどよ、麦湯なんてのもいいね。口がさっぱりして。」
麦湯が「野暮」っていったい何。
野暮問題は非常に難しいものだ。
ざる蕎麦を噛まずに飲むのがかっこいいと思ってる人たちの言い出す「野暮」なんて理屈で考えて分かるわけない。
とは思うものの、まったく根も葉もないわけでもなさそうなのが、面倒ながらもつい考えたくなってえしまうところではある。
さて私が仮説として思いついたのは、「茶」は淹れたての熱いものなのではないだろうか、ということだ。
炎天下をてくてく歩いてきて「かーっ、あついねどうも」と言いながら、汗を拭き拭き淹れたての熱いお茶を飲むのが粋で、冷めた麦湯ごとき飲むなんてだらしない、くらいのところではないか。
何しろ風呂にも適温で入らないような人たちだ、「やせ我慢」という文脈で解釈するとありそうな気もする。
してみると冷蔵庫以降の現代人はずいぶんと堕落していることになるのだな。
野暮なようだけどよ、冷やし麦湯なんてのもいいねえ。腹がタプタプして。
耐熱ガラスの麦茶ポットは、カルキの結晶なんかがつかないし、茶渋のつきやすいゴムパッキンなんかもないので、アクリルの冷水筒より衛生的に扱いやすいのが意外だった。