晴天の霹靂

上品な歩き方とかを習得できないまま人生を折り返すとは

「暑くて大変ですね」

暑い中をてくてく歩いていると、少し前を歩いていたお年寄りがいきなり立ち止まって歩道脇の柵に手をかけてぼんやりし始める。実際、歩いていてだいぶ体力の削られる夏である。じっと止まっている後ろ姿に近づいていくにつれて、こちらはどきどきしはじめる。

声を、かけてみた方がいいのではないか。

あるいは、ちょっとずつ休みながら自分のペースで歩いていたいだけの人なのかもしれない。それならせっかく休んでいるところを後ろからせっつくみたいで気が引ける。でももしかして、出てきたはいいけれど思ったより暑くて立ち往生してるのだったら、声をかけてみた方がいいに決まっている。

どうしよう、どっちだろう。

立ち止まって「暑いですねえ」って声をかけてみるくらいなら、どっちだって別にいいのじゃないだろうか。そう思いながらどんどん距離が詰まっていくと、いよいよ目の前でそのお年寄りはふらっと歩きだす。

あ、よかった。ちょっと休んでいただけか。そう思ってそのまま脇を通り過ぎる。でも、脇を通り過ぎながらやっぱりかすかにどきどきしている。目の前でまた歩き出したのは本当に「大丈夫」ってことなんだろうか?

 

道を歩いていて高齢の人が前より目につきやすくなったのは、もちろん自分の父がよく歩く後期高齢者だからであり、いつどこを歩いていても安全で健康でいて欲しいと思ってるせいだ。

同じような年頃の人が道で唐突に立ち止まっている人を見かけるたびに「どうしよう、声をかけてみたほうがいいんじゃないかな」などと思いつつ、これまで道端で知らない人に話しかけるという習慣がなかったというだけの理由でいつもなんとなくやりそびれてしまう。

声をかけてみて、よしんば冷たいリアクションがかえってきたところで、こちらはちょっとバツの悪い思いをする程度のことであり、それに引き換え本当に熱中症のリスクなんかが迫っていたときのことを考えると、どう考えてもやっておいた方がいいことではある。

そんなことを思いながら、それでもいざとなるとどうにもいつもモジモジはしてしまうのだ。まさか五十路になんなんとしても未だに知らない人に話し掛けるのにモジモジし続けるものだとは思ってもいなかったが、不慣れってまあそういうものだ。

 

そんなことをまた、歩きながら考えている。ふと、さきほど脇を通り過ぎたお年寄りの後ろ姿を思い出した。背負っていたカバンに、赤いマークがついていたのが目に浮かぶ。「あれ、ヘルプマークだ!」振り向いて、戻ろうとするとその人はもう道を折れて家に入っていくところだ。

 

静かに助けが必要な人は現実にたくさんいて、それに引き換え根拠のない内気なんかは一人声をかけてみればあとはきっと平気になるんだから、いい加減私だってそろそろ試しにやってみるべきだ。

「暑くて大変ですね」

 

 

 

 

『地獄の黙示録』ファイナル・カット ~ガシッと掴んで連れ帰る気持ち

真夏の雨がコンクリートを冷やして集合住宅最上階の我が家もだいぶ過ごしやすい室温になりました。水風呂を出たり入ったりしながら読んでいたコンラッドの『闇の奥』が猛暑にぴったりきたので、勢いで映画化作品であるところの『地獄の黙示録』も観ようかな、という気になります。

近頃はアマゾンビデオでファイナル・カットと特別完全版が観られるようになっているのだけど、たぶん私はどっちか片方しか観てない。

 

地獄の黙示録』って、漫画みたいなキルゴア中佐を観て爆笑して、「ワルキューレの騎行」のシーンでつい盛り上がってしまうことにバツの悪い思いをしつつ、スゲースゲーと言って観ていたら後半から急激に雲行きが怪しくなり、まったく動こうとしないマーロン・ブランドが暗闇でブツブツ言い始めたあたりで途方に暮れるが、とにかく画力があるのでうっかり最後まで観てしまう、という作品だと思っていたのです。

 

これが歳をとるってのはありがたいもので、久しぶりに観たら最後まで全部おもしろかったです。

単に「フランス人農園のシーンとマーロン・ブランドのシーンはああいうもんだ」とあらかじめ寛大な気持ちになって観ているせいもあるかもしれませんが、今や自分よりずっと若いマーティン・シーンが次々と”まったく理解できないもの”に直面させられていく旅路を観るにつけ、「あるよねー。人生にはそういう地獄あるよねー」と、しみじみしてくるようになりました。

最初からわかりやすかったマンガみたいなキルゴア中佐

今までは”キルゴア中佐が絶対に爆弾に当たらない”ギャグが一番おもしろいだろと思って観ていたものですが、そこはそれとして一番最後のシーンが印象深かったのです。

カーツ大佐を暗殺するというミッションを渋々果たしたマーティン・シーンがヨレヨレで帰っていく途中で、LSDで陽気になって現地の人と同化していた阿呆のランスをちゃんと見つけて腕を掴んで連れ帰るところがなんだかしんみりします。

子犬を懐に入れて光るものに見とれてばかりいる阿呆の子ランス

これだけ派手な映画のこんな地味なカットに我ながらずいぶん心動くものだなあ、と不思議な気がしてつい二回観てしまいたが、やっぱりあのしっかり腕をつかんで「ほら行くぞ、バカ」っていう感じで連れていくところが堪らなく、またその陰には同じくらいラリった状態でどこかに紛れてるデニス・ホッパーもいるはずではあるんですが、そっちは全然探さないところも、気づくとちょっと可笑しい。

 

思えばあのラリっているランスという若い兵士からして、旅の途中、丸腰のベトナム人たちがのっている船を一方的な銃乱射で虐殺してしまい呆然としている中で見つけた子犬を奪い取ってその後ずっと懐に入れて連れ歩いた青年でした。

なんだかよくわからないけどランスが子犬を手放すまいとした仕草と、何もかも嫌になっちゃってるマーティン・シーンがほとんど無意識にランスの腕をつかんで連れて帰る仕草が非常に近しいようにも見えるのです。

価値判断など、ほぼなんにも分かんなくなっちゃってる状態で明らかに自分より無垢なものを見つけると、人ってああやって連れて歩いてしまうもんなんじゃないか。

それはもしかしたら自分が猫を飼うようになったから目についた動作なのかもしれないのですが、疲れきったときに「あ、ここにまだ無垢なものがある」と思って無意識にガシッと掴んで引き寄せてしまう仕草は、「わかる。疲れてるんだよね」ととめどない共感を寄せざるを得ないのでありました。

(しかしあのあと、デニス・ホッパーはどうなるのかね?)

 

連れて帰ってもらえない方の薬物中毒デニス・ホッパー



 

原作はコンゴが舞台。ジャングルの奥地に潜んでいるのは軍人ではなく、なんと東インド会社のサラリーマンなのです。

暑すぎる日に水風呂にこもりつつ読むと熱帯ぽっくてやけに面白い一冊。

 

『闇の奥』 ~猛暑の水風呂で何を読む

大変に暑く、午後になった途端に意識が朦朧としてくるのだが、水風呂に入ってさえいればとりあえず本を読める程度までは頭がはっきりする、ということを思い出した。

 

そういえば、去年は猛暑の間に水風呂の中で『シャイニング』上下巻を読み通してしまった。昼日中から風呂、という非日常性と外界から隔絶されてしまった感じがシャイニングにピッタリあって格別の読書体験であり、ひとりでたいそう盛り上がったのだった。

 

こんなとき強い味方なのはやっぱり軽くて防水のKindle Paperwhiteで、とりあえず意識朦朧としていてもこれだけもって風呂に入れば、水に浸かって頭がはっきりしてくる間に何を読むかをあれこれ選べるというのが面白い。意識の朦朧と明瞭の間で自分がどんな本を読みたがるかなんて、そのときになってみなくてはわからなくていかにも興味深いではないか。

 

そんなわけで、今年の水風呂読書はとりあえずジョセフ・コンラッド『闇の奥』であった。

コンゴの密林を奥へ奥へと進んでいくと、だんだん意識がおかしくなっていき、最終的に2メートル10センチの大男とが地面からむわーっと湧いて出るという、読んでも読んでもなんだかさっぱりわからない重々しさみたいなのが良い。

こちらだって、身体がみちみちになる程度のサイズのユニットバスに延々と挟まって「ここから出たら死ぬかもしれない」などと思いながら、一方でなぜか呑気に小説なんかを読んでいる身の上である。状況に”闇の奥感”は十分。そのうちぬるくなっていく水の中から自分の分身がぶわーっと立ち上がったりして、と思う程度には非日常的な気象を過ごしているのだ。朦朧としてるわりに、なかなか良いチョイスだと思う。

 

年々、エアコンのない土地柄での猛暑はつらいけれど、この「小説でも読むより仕方ない」というところに追い込まれて水風呂の中でする読書はあまりにも印象の強い体験なので、これだけは悪くないよな、本当に。と思う。