晴天の霹靂

びっくりしました

ポメラ愛を久しぶりに

ポメラを買ってほぼ一年半。

「テキスト文書が作れるだけのマシンが今どきなぜ3万5千円もするのかっ!」

と打ち震えつつ購入し、本当にテキスト文書しか作れないことに打ち震えながら使う日々。

使えば使うほど「テキスト文書を快適に作る」以外に何もできないということこそが魅力であることを思い知っていったものでありました。

白黒反転させればパソコンよりはるかに目も疲れないし、喫茶店やらに持ち出してもバッテリーの心配もほとんどいらいないお気楽。

打鍵音の軽快さに耳を済ましながらキーを打ち続けるときに湧いてくる謎の相棒感覚。

「外国語対応してくれないかな」とか、「せめてワードと連携できないものか」とか、欲を言えば望むことも色々あるが、むしろそこが良いとも言う。

3万5千円も払ってしまったせいで、多少の弱点にはこちらから積極的に言い訳をしにいってあげたくなってしまう、愛と盲目の一年半でありました。

 

rokusuke7korobi.hatenablog.com

 

それが昨今どんどん値下がりしてどうかすると私が買ったときより一万円近く下がったりしてるのを目の当たりにし、

「これはもしや次世代来るのか?」

と思っていたらいつの間にか本当に来ておりました。

 

じゃーん、どこが新しいのかわからないっ!

 

アマゾン価格で五万円以上もするが、校正支援とか、保存文字数アップとか、

アップデートの内容がなんか地味なせいで、使ってみない限りどうなのか全然わからないところがやはりかわいい。

「新しいのでたから欲しいでしょ」という押し出しからはだいぶ離れた「今の機種がいつか電源入らなくなったら買い替えるからそれまで元気で作り続けていてくださいっ!」とそっと見守りたくなる感じ。

なかなかたまらないところがある。マニアックポメラである。

立秋の自由研究

日暮れ後の風が急に「スーンとしてるな」という心持ちがして暦を見たら立秋だ。

暑い盛りではあっても、「秋」という文字を見ると、急になんだか夏休みが終わるような寂しい気持ちになる。

 

時々のぞく手芸屋さんでピアスのパーツを売っているのを見つけた。

「そうか。これなあ」

としばらく立ち止まって見つめる。

 

我が家に、真珠が何粒かあるのだ。

2000年になくなった母が残していったネックレスだったものだ。

たぶん、地方公務員として働いていた独身時代に

「大人なら真珠のネックレスはひとつは必要だから」

とかなんとか言われてちょっと張り込んで買い、たいした出番もなく何十年も引き出しにしまっていたものだろう。

それでも母の人生では二回や三回は付ける機会もあったのかもしれないが、私にはどう考えても何もない。

なにしろ当の母と何十年かぶりに再会したらすでに骨壷だったレベルでノーイベントライフなのだから、この調子でいけば冠婚葬祭が我が身に降り掛かってくることはおそらくないのだ。

 

このまままた何十年引き出しの奥では真珠もかわいそうだと思ったので、崩して数珠になおしてもらい、四十九日にそれで読経してよしとした。

持っていった数珠屋さんでは「小さいけれど、ものは良い真珠だ」というようなことを、たしか言われたような気がする。

その真珠のあまったぶんが、六花亭の缶の中に数粒しまったままある。

大学生のころに面白がって開けたまま通気孔になっているピアス穴も、見たところまだふさがってはいない。

「テグスであの真珠をくくりつければピアスとして使えるんではないか?」

 

一番細くて丈夫そうなテグスとピアスパーツを買って帰って、いかにも不器用に何重もの玉結びでくくりつけていく。

日暮れ方の窓辺で風に吹かれながら何度もやり直していたら、夏休みの自由研究をしている小学生みたいな気持ちになった。

「一応、ピアスっぽい見た目にはなったかな」

近くで見るほどお笑い草の出来栄えではあるのだけど、気楽でいいと良いと言えば良い。

冠婚葬祭ではなく、スーパーにネギ買いにいくときにつけるのにふさわしいものに見える。

 

テグスに玉結びだけど、真珠自体はわりといい真珠だっていうから。

ちょうど秋の暮れ方の雲みたいな色をしている。

こんなやり方ではすぐ切れてなくなったりするのかもしれないけれど、そうやって一粒ずつなくなっていくなら、それはそれで悪くないような気もするな。

夕空に向かってピアスを揺らしながら、なんとなく過ぎていく時間のことを考えてみたりする。

 

 

 

 

どうも、あとで調べたところによると「9ピン」というパーツを使って連結するのが正解であるらしく、「そういうえばこういう形のもの、ピアスパーツの隣に売ってた!」と理解したのでありました。

なんでも物事はよく調べてから取り掛かった方がいいようだ。

真夏の昼の幻影

公園に入ったあたりの小道で、正面からやってくる白髪の女性に声をかけられた。

「神社はどっちの方ですか」

ああ、神社。ここらはもう鎮守の森の中である。

「この道を上がっていったらすぐ右手に鳥居ですよ」

ありがとうと頭を下げて女性は道を上がっていく。

暑いのでお気をつけてと見送って、さて見知らぬ神社に何をしにいくのかしら、と考える。

いつか国策で配られた小さな白いマスクをしていたようだ。

みんな持っているけれど、使っている人は珍しい。

森の妖精にでも出会ったのだろうか、と思いながら蝉しぐれの中を歩く。

 

坂道では、ブレーキのない自転車のハンドルにしがみついてまっしぐら落ちていく子と、青くなって後ろから追いかけるお母さん。

池の端にいつも居るのは、千利休にそっくりの帽子をかぶってラジオの音量が大きすぎる置物のようなおじいさん。

つい先ごろまで手のひらサイズだった池の鴨は、もういっぱし大人のサイズになって得意げに水を掻いている。

首の後ろに保冷剤を巻いてもらって、嬉しげに歩くこんがりしたお尻の柴犬。

ベンチに座って「何時間もラジコン背負ってきたから背中がぐっしょりだ」と電話している遠い昔の少年。

 

そういえば、と木漏れ日の中を歩いていて思い出した。

あの道は、すぐ二手に分かれてしまうのだ。

見た目が二つに見えるだけで、ほんのちょっと歩けばどうせすぐ合流するのだけど、木の葉が茂るこの季節では初めて来た人にはわからないだろう。

「どっちでも同じですけど、広い道の方がなだらかで歩きやすいかもしれないです」

と言っておけばよかった。

こんなクラクラする炎天下、あんなに暑そうなマスクもして、なにやら大きな紙袋も持って、ちゃんとたどり着いたろうか。

 

心配で、神社の前を通って戻る。

参道の向こう、鳥居の奥に目を凝らしても、人影はないようだ。

もう無事に参拝して帰ったのかしら、と思っていたら何か急激にとんぼ返りを打ちたい気持ちになってクルンと前に飛び跳ねる。

ぼわっと大きな尻尾を抱えて着地して、ああそうか私は公園に住む狸だったのだと思い出した。

ずっと、人間であった夢をみていた。

道理で、身の丈に合わないことと、悲しいことが世に少し多すぎる。

 

ふいにドンと花火の上がる音がして、振り向けば火薬を詰めた手製の鉄の筒を持った人がゆっくり路上に倒れていく。

たくさんの人が飛びかかってきても、何の抵抗もしないくらい絶望しているが、理性だけは手放すまいとするように、倒されてなぜかメガネをしっかりつかんだ。

空の手の平には火薬の匂い。

ずっとひとりで歯をくいしばっていたら、いつの間にか青年という歳でもなくなっていた。

 

どこからどこまで夢だったろう。

不思議な幻影が見えた路上に視線をやったまま考える。

白いマスクの老婦人、池の端の利休帽、自転車で遊ぶ子ら、白昼の絶望。

夏はおかしな季節である。

まったく日差しが明るすぎるので、これほど悲しい気持ちにもなるのだろうか。

 

 

 

 

 

『恐竜大紀行』~湿っぽい恐竜もいいもんだ

ジュラシック・ワールド』の新作を観てきて、恐竜以外のシーンはほぼどうでもよかったけど、恐竜がたくさん出て来るシーンはこの歳になっても意味もなく「良い!」ことに感激した夏。

こちらの理解を超える規模で何かがでっかいってありがたいことですね。

 

そんなことを考えていたら漫画『恐竜大紀行』がkindle unlimitedで全部読めることに気づいてしまいました。

表紙といいタイトルといい、素敵です。

 

1988年から89年にかけてジャンプで連載されていたというので、世代によっては知る人ぞ知る漫画なんでしょうか。

私は恐竜に特別思い入れのない子どもだったので全然知りませんでしたが、ちょっともったいなかったな。

 

ジュラシックパークの一作目が1990年ですから、スピルバーグがリアルな動く恐竜で世界をびっくりさせる前夜の作品ってことになりましょう。

みてきたように、何気ない日常のワンシーンを恐竜の独白入りで紹介してくれるのが、本当に面白い。

興味深いのは、恐竜全般がわりとセンチメンタルなのです。

 

公開中の『ジュラシック・ワールド』で”最新の恐竜”をみてきて思ったことには、恐竜って結局まあ、そんなにたしかなことはわかりようがないんだろうな、と。

硬い組織は化石化して残るから、「だいたいこういうサイズの生き物がいたっぽい」ということは確からしいけども、そのでかい骨と骨がどういう角度で接続されていたのか、とか何色なのかとか、どれくらいの速さで移動できたのかとか、そのあたりは結局憶測で、その憶測の部分に、時代時代で憶測する人のロマンが入るのでありましょうよ。

 

 だからどこぞの街でビルとビルの間を飛び移るアクションをする恐竜もありっちゃありなのかもしれないし、夕日に染まる平原を観ながら食物連鎖の中に消えていった友人に思いを馳せる大型恐竜もありなのかもしれない。

なにしろ「骨が出てるのは確かなんだから、まるっきりの絵空事ってことではないだろう」っていう気迫が、恐竜さんのいいところですね。

今生きる人の「こうであってほしい!」という願いを受けて、恐竜たちの生命力は宿るんではあるまいか。

 

 

 

さすがのヤンキーカルチャー時代、ティラノサウルスがモノローグで「このアマ!」とか言ってるのが斬新でありました。

 

 

 

 

翻って、ジュラシック・ワールドは基本的に「意思の疎通のとれない恐竜たち」の感じが良かったし、とりわけシリーズ一作目のモササウルスの問答無用感は最高。

『ジュラシック・ワールド 新たなる支配者』~ぜんぶマシマシ夏休み

ジュラシック・ワールド 新たなる支配者』見てきましたよ。

でっかいものが無闇にいっぱいいるっていいですね。

 


www.youtube.com

 

見てる途中で、ランボーになったり、エイリアンになったり、ミッション・インポッシブルになったり、スターウォーズになったりインディージョーンズになったりするので

「すごい楽しいけど、ジュラシック・ワールド見に来たんじゃなかったけか?」

みたいな気にはなってくるんですが、

しかし盛り込みすぎてくれるぶんには、愛想のない映画よりだいぶご馳走様です。

しかも恐竜が筋肉俳優ばりのアクションをするのは大変笑わせてもらいました。

もう何がなんだかよくわからないけれどいいぞ頑張れ。

 

人間パートのドラマ部分は、一作目から引き続き「欲に駆られたやつはろくな目に合わない」みたいな感じの話しをしていたようですが、わりとちょうどいい具合だったと思います(もっとも、でっかいバッタの話がぜひとも必要だったのかどうかについてはよくわからなかった)

 

あとは、カラフルもふもふ系の恐竜も出てきたのは非常に嬉しかった。

「恐竜ってのはでっかい爬虫類だろ」と思ってる世代ではあるんですが、最新のカラフルもふもふ系も、出てくるとやっぱり大変良いデザインだと思います。

トロピカルもふもふ君もかっこいい



「いやあ、いいもんみた。すごく夏休みっぽいもの見た!」

と思って、家で猫に向かって例のアレをやるために急いで帰宅することですよ。

ジュラシック・ワールドといえば例のアレ

 

そしたらクローゼットの奥で寝たまま顔見せに起きても来ないので、興奮を持てあましてひとりですーんってなったりしましてね。寂しいもんですね。

 

夏と戦うあれやこれ

暑いのです。

40度近い地域も数ある日本列島のなかで、ちょっと30度超えたくらいのことで暑い暑い言い始めるのも気がひけるのではあるけれど、我慢するのも暑苦しいことなので、ここはやはり言わせて欲しい。

何度であろうが暑いものは暑い。

 

比較的風の通りが良い建付けのわりに夏が暑いのはなぜだろうと常々思っていたのだけれど、

蓄熱量の多いコンクリート造りのうえに、エアコンで部屋を冷やしてる世帯などひとつもない北国の集合住宅、最上階に住んでるから熱は全部上がってくるわけだし、

「結局うちが一番暑いんじゃないかしら」

という結論。

実際、一段ずつ階段を上がってくると、上にいくほど暑くなってくるのがわかる。

理屈がわかったところで涼しくなるものでもないが。

 

「気温32度くらいならまだ全然余裕のはず」

などと思いながら、なぜかアイスノンに頭つけてるうちに記憶を失い、直射日光が少しやわらぐ時間にようやく目覚めてびっくりする。

「いかん、昼間からいったい何をっ!」

と思って立ち上がれば思いの外、膝関節の接続がカパカパしており、なんだ最近の熱中症というのは関節までゆるむのかい、と思うのでありました。

 

おかげで、猫も日がくれるまで顔を見せにもこない。

扇風機の横で闖入してきた羽虫と戦う夜の猫



朝顔のたくらみ

ベランダに朝顔が咲いている。

7月のベランダにとって朝顔が咲くほど素晴らしいことは、なかなかないように思われる。

たったひとつのプランターに種を一袋全部蒔いてしまったせいでツル同士はぐるんぐるんに絡まり合ってしめ縄の様相を呈しているし、栄養不足のためか花も少なく小さい。

しかし、どれほどささやかであっても夏に朝顔が咲くのはこの世の最高の出来事のうちのひとつと言える。

 

冷たい麦茶を片手に、無印頑丈ボックスに座って盛夏の花見をする。

今朝の花はみっつ。全部向こうを向いて。

太陽に向かって伸びていく性質のせいなのだろうか、咲いても咲いても、花はつねに外を向いており、私は毎日花の後頭部ばかり見ながら茶を飲んでいるのである。

もちろん、花が咲いている事実が尊いのであって、どっちを向いていてもそれによって価値が毀損されるとは思わない。

思わないのだが、声をかけてもいっこうに振り向かないところは、どうもうちの猫に似てる。

冷たくされるくらいのほうが、尊さが募るものであろうか。

 

迷子になっているツルをベランダの手すりの方に寄せて軽く絡ませておく。

こうしておくと夕方にはもう手すりの高さの半分ほどまで登ってしまうのだから、ある意味運動神経は猫より優れてもいる。

上へ上へ、ちょっとでも太陽に近いほうに近い方にまっしぐら登っていって、手すりの中に自分を閉じ込めて満足する私のほうには見向きもしない。

ラクラとする7月の日差しの中で、朝顔の後頭部は宣言する。

こことは違う世界があらまし。