『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』を読んでみましたよ。
2023年に映画化されたときに、映画館でずいぶん頻繁に予告が掛かっているのを観るにつけ
「ティーン向け恋愛ドラマにまで特攻隊が入ってきたのか。大丈夫なんだろうか」
という不安を感じたのですが、それはそれでなんとなく忘れていたんです。
今年になって、今度は続編の予告が映画館で掛かりはじめるのを観るにつけ、そろそろ素通りしてる場合でもないような気がして、読んでみたのでした。
中学生の百合は毎日が退屈な反抗期。ある時、家出をして防空壕で眠っていたところ1945年にタイムスリップし、イケメンの特攻隊員、彰と出会って恋に落ちる。百合は特攻なんか意味がないとしばしば喧嘩を売るが、家族や百合の安全ためになるのだと信じて疑わない彰は真に受けない。やがて命令がくだり、百合を残して出撃。ショックで気絶した百合は現代に戻る。彰が身を呈して守ってくれた現代で、百合は素直になって家族や学校との関係を改善していく。
……というような話でした。
「特攻隊をエンタメのモチーフにすることの是非」は、いったん後回しにします。読んで私が最初に引っかかったのは、「恋愛小説としてエモーションがつながってないんじゃないか」という点だったからです。
14歳の、日常生活に不満ばかりの中学生がタイムスリップして20歳のイケメンに窮地を助けてもらったら、惚れてしまうのはわかります。
しかも、その時代、その地域の中で軍神として超越的に待遇されている存在であれば、特別扱いされたら確かにうっとりするでしょう。
これが恋愛を扱ったストーリーであるためには、戦後の世界からやってきて一人だけ「戦争の結末」を知っている百合が、好きな人を特攻に行かせないために全存在を掛けて彰と真剣に衝突するのが展開になる筈ではないのだろうか。
百合は「特攻なんて意味がない」みたいなことは何度か言って、喧嘩はふっかけるんですが、結局”頭ぽんぽん”されたり”ふわりと抱きしめられたり”してるうちに、それは有耶無耶になります。
(ちなみに、小説内世界では特攻隊員は仲間が見逃してくれれば逃げることもできるし、そもそも志願しない選択肢もあった、ということになっています。私はそうは思えないけれど)
なぜ、「自分だけが知っている大事なこと」を、せめて好きな人には分かってもらうために説明の努力をしないのか?
そもそも「自分が戦後の世界から来たこと」を、説明もしないで黙っているのはなぜなのか?
主人公の百合が一向に「恋に向かって本気を出していく」というフェーズに入らないので、恋愛ドラマではなくて、「時系列に従って一定間隔で恋愛ドラマのクリシェを並べたストーリー」に見えるのです。
頭ぽんぽんしたり、身を呈して嫌なおじさんから守ってくれたり、花を見たり、星を見たり。
クリシェは、効果があるからクリシェになってるのだとは思うけど、いくつ並べてもそれは本質にはならないのではないか。
「私には百合の恋心が見えてこないのだけど、本当に携帯小説を読む年齢層にはこれで伝わって、これがヒットするのだろうか?」
と思いながら読んでいましたら、すごく興味深い一節に遭遇したんです。
まさに滑走路上で、特攻機が出撃していく場面。
特攻機の操縦席の中から、見送りの人たちに笑顔で手で振り返す隊員たち。家族や町の人々から送られた花束やマスコットを持ち上げて、何か言っている人がいる。
先入観ってよくないですね。ここを読んで私は
「キス・アンド・クライかよ。マスコットって何のだよっ?」
と真っ先に思ったんです。
それでもなんとなく気になって、知覧特攻平和会館のアーカイブを見ていたら、なんと、本当にありました。
これを、誰がいつ「マスコット」と呼んだのかわかりませんが、女の子の姿をしておりますから、分身として一緒にいってあげるための身代わりの人形なのでしょう。
みたときには、さすがに切なさに鳥肌が立ちました。

ここに目を留める作者なら、なぜ「マスコット」とだけ書いてスルーしたのか。
百合には、タイムスリップした世界でできた千代という友達がいるんです。その千代もまた、彰と同期の特攻隊員に恋をしています。
つまり「百合が最初から戦中世界に生まれていたらたぶんこうだったであろう」という写し鏡の存在。
千代は誇りを持って特攻隊の身の回りの世話をし、実らない恋心を抱えたまま、黙って好きな人の出撃を見送ったのです。
だったら「マスコット」は「千代が好きな人のために作ったもの」というエピソードは入れられたはず。
千代は裁縫が得意、という情報は、ずいぶん早くに振ってあるので、
「私は石丸さんのためにつくるから、百合ちゃんも彰さんのために一緒につくろう」
と誘うシーンを入れればいいではないか。
それで百合が「特攻なんて意味のないもののために、そんなことするもんか」と言って、唯一の親友とも喧嘩別れをすれば。
特攻によって、好きな人と、親友と、両方を失って、そのどん底で元の世界に帰ってきてしまう。
それによって「意見が食い違うからといって、簡単にコミュニケーションを諦めない」人へと変われば、それで恋愛ドラマとしてエモーションは通るではないか。
……などと思ったのでした。
きっと、モチーフとして心が動いたから登場させたのたのだろうに、どうして「マスコット」とだけ書いて、それ以上触れなかったのか。
携帯小説としては、それは必要ないという判断になるんだとしたら、私は本当に携帯小説の解読ができないんだとは思いました。

最後に、特攻隊を恋愛ドラマのモチーフに扱うことについて。
とくにこの作品では、主人公が、超越的な存在から全面的に自己肯定してもらい、タイミングよいところで消えるための「都合のよい悲劇の発動装置」として働いている点において肯定できないな、と思いました。
それから「私は今、あなたたちが守ってくれた未来を生きています」という結末は、完全に戦時プロパガンダの再生産だと思うので、こちらはむしろ害悪なのではないか、と感じました。
映画版を観る勇気は正直、なかなか出ないのです。








