少し前に読んだ瞑想の入門書で、「瞑想中にどうしても眠くてつらいときは姿勢をただして横になって瞑想してもかまわない」と書いてあったのだ。
夏の暑さになんとなく払いきれない眠気が付きまとう炎昼、
「そういえばどこぞの高僧が、横になってもできるって書いていたし」
と思い出し、いぶかりつつも試しに瞑想中横になってみた。
姿勢と思考というのは不思議なくらい関連する。
今までなんとなく「暑くて眠くてだるいなあ」というところで行き止まりになっていた思考回路の灯火がすーっと遮るものなく遠くまで飛ぶようになる。
「あれ、今まで考えあぐねていたことが全部連絡しあって結実していくのが見えるぞ。悟りとはこのようなものか」
と思ったところでスマートスピーカーがチーンとなり「瞑想が終了しました。お疲れ様でした」と告げた。
正体もなく、ぐっすり寝ていたのである。
夏目漱石の前期三部作の最後『門』は禅寺へ修行へ行くシーンがある。
社会の目を逃れるようにして身を寄せ合って暮らす夫婦の、ある意味陰気な話だ。
寂しい話なのであるが、「陰気な夫婦が崖の下に住んでいる」という圧倒的なビジュアルがもう漫画のようで面白い。
しかも崖の上には大家が住んでいてそちらはにぎやかな成金である。
コントの装置みたいではないか。
夫婦がなぜそんなに寂しいかといえば、親友の内妻を奪うという略奪の末の関係だからだ。
世を忍ぶ夫婦の、互い同士の他には頼るもののないつましい生活が淡々と、延々と描かれる。
なんか寂しい、とか言いながら散歩したり、正月の餅を切ったり、床屋にいったり、寄席に行ったり、明治の東京の庶民の暮らしがつぶさに描かれて、結構楽しそうなのだけど、2人にとって大切な人の人生を踏みにじってしまったという悔恨は消えないのだ。
そんな「おもしろいけど何の話?」みたいな不思議な日常がずーっと書かれたあとで急に崖の上の大家のところに客人として「妻の元夫」が招かれてくるらしい、ということになる。
崖の下の夫・宗助大慌て。
夫婦の間に常に横たわり続ける罪悪感の源がやってきてしまうのだ。
最大の山場がついにくるのかと手に汗握って読めば、なんと宗助、黙って一人で禅寺に逃げる。
「いやいや、せめて妻連れていけよ」
読者びっくりの謎の行動である。
妻一人で元夫と対面したらどうするつもりだったのか。
真剣に悩んで禅寺に赴いたはずの宗助が全然ダメなところも漱石っぽい。
「考えるなら座って考えても寝て考えても同じなんじゃないか」
とか言って初日からいきなり座禅中に布団を敷いて寝たりするのだ。
それはダメだろう(いや私も寝たけど)。
一週間ほどの修業期間をもってしても何かを理解する片鱗もなく、結局は徒手空拳で崖の下の妻のもとへ帰る。
探りを入れてみれば、どうやら懸念の元夫はもう来て帰った後らしい。
妻は何も知らずにすんだらしい様子に、「ああよかった」とひそかに胸をなでおろす。
ああよかった、じゃないよ、何も解決してないだろっ!
と大声で突っ込みつつ本を膝に取り落としてしまうあたりは、なかなかぴりっとする読書体験だ。
自分で座禅中に寝たりしてサボってる癖に、固く閉ざされた禅寺の門の前で「この門もまた自分には固く閉ざされているのだなあ」なんて軽く酔ってみたりして、宗助本当にお前はダメなヤツだな。
なんで略奪婚なんていう思い切ったことだけできたんだ、ややこしい。
でもまあ人ってこういう、説明つかないものかもしれないねえ。
宗助ともども瞑想ひとつまともにできない読者の感想である。