晴天の霹靂

びっくりしました

地図にはない神社

偶然、地図に載っていない小さな神社を見つけたので、ついのことでちょっと参拝してきた。

ひっそりと短い参道もかわいらしい、小さいなりに大切にされてきた感じのある場所だ。

お堂の脇の木陰には、これまた小ぶりな馬頭観音の碑がある。

北海道の神社は開拓使跡であることが多く、使役されていた馬の慰霊のために馬頭観音が一緒に祀られていることがよくある。

馬のための神様ならばうちの動物のこともよろしく気にかけてくれるに違いないということで、猫を飼うようになってからは見つけると嬉しくて手を合わせるようになった。

 

「ずいぶん気分のいい神社だったなあ。なぜだろうか」

と考える道々気付いたのは、ピカピカしたのぼりがなかったことだ。

改元祝いやらコロナ収束祈願やら、近頃真新しいのぼりをズラリ立てている神社が多いのが、私にはどうもちょっとした威圧感に見えるのだ。

なんとなく、こちらの思いを受け止めてくれるのかしらと思って入っていくと、先に向こうから矢継ぎ早に思いを述べられてしまって気圧される。

今しがたの神社にはそういう押しの強さがまったくなく、まるで動物が通ううちに勝手にできた森の小道のごときひっそり静かな参道であった。

 

時に、うちの猫たちは街中の住まいということで部屋から出したことのない完全インドア猫だ。

しかし、そんな狭くて変化の少ないテリトリーの中でも彼等は「ついといでー」という誘いをしょっちゅうかけてくる。

尻尾をピンと立て、こちらの顔を見上げてにゃあにゃあと呼びかけながら、ちょっと走っては振り返り、ちょっと走っては振り返り、懸命にいずこへか誘導するのだ。

「どれどれナニゴトカ、我が家で埋蔵金でも出たのかね」

とついていくと、そこはせいぜい見慣れた隣の部屋、変わったものは何もない。

 

私の肩透かしを知ってか知らずか目的を達した猫は、変わり映えのしない部屋にちんまり座って「ねっ!」という感じでこちらを見つめたり、あるいはそこらに積んである本に満足気に顔をこすりつけたりする。

「何もないのになぜ呼んだっ?」

としばらくは思っていたものだが、繰り返し連れていかれるうちに気が付いた。

猫は、彼等の中で「今一番流行っている場所」に招待してくれているのだ。

 

ここ涼しいよ、とか、静かで気持ちがいいよ、とか、本の積み具合が絶妙だよ、とか。

彼らにはその時発見したとても重要な情報があって、そんな大事なものを鷹揚にも分けてくれている。

そう気づいてみると、猫に連れていかれる場所というのはなんだか理由の分からないときにもだいたいありがたいものである。

 

誇らしげに振り立てた尻尾を目印に普段は見えない道を黙ってついていくと、いつの間にか「猫の世界」に誘われる。

「あの参道、なんかそういう雰囲気あったなあ」

 

ちょっと地域の複雑な事情で長い間不遇だったという由緒書きがあったのを気がかりに思い出す一方で、でもいつまでもひっそり大事にされる猫の宝みたいな場所として在ってくれると嬉しいなあ、と言う気持ちになる。

 

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尾を立てて猫のいざなう走馬灯