年が明けてから一日一首くらいずつ読み進めている百人一首、97首目を読んでいた日は何があったかというと先日102歳で亡くなった祖母の納骨をしてきた。
私が小学生のときに亡くなった祖父はお葬式をやった記憶があるが、4年前になくなった母も、今年なくなった祖母も火葬だけされた。
市営の納骨塚には今や、私の母、祖父、祖母、と3人揃って入ったことになる。
「次は俺かな、お前かな」
と叔父と父が三分咲きの桜の下でガハガハ笑う。
自我を確立する世代とか、恋愛と性欲に神経回路を乗っ取られる世代とか、自分の成長の伸びしろに気をとられてる世代とかにはうっかりしてて全然気づかなかったが、生命はまっしぐら病と死に向かって伸びていてちゃんとハズレがないものだ。
当時55歳の藤原定家が、恋人を待つ海女の乙女の気持ちになって詠んだ歌なのだそうで、「ははーん、すごいですね」と思うことだ。
こちとら46歳になって「あれ、恋愛よりも老いと死と墓の方がだいぶおもしろいかも」という気持ちになりかけているのだけど、あと10年くらいするともう一回恋になにかを仮託して語ろうかという気持ちを取り戻したりしてくるのだろうか。
そもそもこの歌がピンと来ないのは「藻塩」がわからないせいだ。
なんでも海藻を焼いて煮詰めて塩を精製するとのことで、それはさぞジリジリと暑くて磯臭い匂いがするのだろうという気がする。静かな海岸で塩が結晶してくるほどの恋というのは、たしかに五感に訴えて強烈な表現だ。
「水辺でジリジリ焦げる恋ねえ……」
と思っていたら、この表現はものすごく親しみのあるものだったことをふいに思い出した。1989年、私が12歳の頃、「ジリジリ焦げてるこの痛みを 冷たい水辺にそっと浮かべて」という歌詞が大ヒットしてたのだ。
海女じゃなくて花柄の水着だけど、松帆の浦じゃなくてプールサイドだけど、歌の情景とテーマが『淋しい熱帯魚』と藤原定家でまったく同じだ。すごい。
そう思ってじっと見入ると、「ジリジリと身を焦がす恋」というのはなんとなく「死を想う歌」のように思えなくもない。
三分咲きの桜の下で納骨なんて行ってきたから、少し変わった気分になったのだ。
昔は沢田研二に似たイケメンだった叔父さんは、すっかり小さなおじいさんになって、私に向かって「大きくなったねえ」と言った。