晴天の霹靂

びっくりしました

わが袖は ~石に寄せる恋

今年は百人一首を毎朝ひとつずつ読んでいる。

正月を少し過ぎたあたりから始めて、なんだかんだ忙しくて読めない日があったとしても桜が咲く前には百首読み終わるだろうという見当で始めた。

北国の桜はまだ見かけないが、全国的にはもう散り終えた地域の多いこの頃で92番まで来たのだからだいたい計算通り進んだことになる。

 

百人一首は几帳面にも年代順に並べてあるから、最初好奇心で読みはじめ、だいたい慣れて来た頃で爛熟の王朝時代が来る。こちとらさほど歌の良し悪しがわかる教養はないが、現代人でもわかる感覚がぐっと増えてくるし、名前のわかる大スター歌人も増える。おまけにちょっと調べれば「この人とこの人が血縁で、こことここは付き合っていたんだってっ!」というゴシップネタでもひとしきり遊べる時代が2,3世代分は続いて楽しい。

 

そういうのもわりと落ち着いてきてしまって、「よく知らない歌人がネタ切れめいた世界観で手練れの歌を歌っておる」と素人としては思ってしまうようなものがまた続いてきて眠くなるのが80、90番代という気がする。(先人たちに申し訳ないが、歌は作るより読む方がよっぽど難しいらしいので、不肖私にはそういうことになる)

 

いくら眠気覚ましのコーヒーを飲みながらとはいえ、朝からピンと来ない31文字を見つめているとまた眠くなってしまうので

「いっそトリビュートしてけばいいんではないか」

と、思った。

歌が、作るより読むほうが難しいならば、読むより作る方がお得ってことではないか。

わが袖は汐干に見えぬ沖の石の 人こそ知らぬ 乾く間もなし

「石に寄せる恋」というお題で詠まれた歌らしい。

いつも同じ環境でだいたい同じメンツで歌を作っているので「そろそろネタが切れてきました」という感じがして面白い。飲み会もこういう感じになることがある。

どんなものにまで恋を寄せてみることができるか、という思考実験は現代のBLカルチャーとか転生モノとかにまで続くようで、結構いい歌でもあるように思うのだけど、それにしても「涙で乾く暇のない袖」っていう王朝が好む恋の表現は私はあまり好きではない。「そんなに泣かないだろ」とも思うし、陰にこもった恨みがましい表現のようにも思える。

 

ぬばたまの猫は夢見る沖の石 光る毛先に踊る竜宮

涙で袖を濡らす嗜好のまったくない私は、近頃は起きると隣で枕を奪って丸くなっている猫の腹のあたりにとりあえず顔をうずめることにしている。

こちらも猫も寝ぼけているから、もはやどこからどこまでが人でどこからどこまでが猫なのかわからないようなフィット感である。

この溶け合う信頼関係は猫を飼っている無常の喜びのひとつではあるが、どの猫を飼ってもこういう朝に必ず恵まれるわけではもちろんない。

朝はテンションがバク上がりで全然隣で寝ぼけてくれない猫もいるし、顔を寄せられると照れる猫もいる。また先代うちで暮らしていたトラ猫は毛が短く固くて朝から顔をダイブさせたくなる毛並みとも少し違った。

どの猫と暮らしたらどんな幸福がもたらされるのかは、あらかじめ計算できない奇跡である。

 

朝イチでしばらく黒い毛並みを吸ったあと、のそのそと起き出してコーヒーを飲みながら「今日の百人一首」を開いて読む。

なになに、石に寄せる恋か。けったいなこと考えるね。

石かあ…石ね…などと考える私の隣の部屋で猫はまだ夢の中に深く沈んで幸せそうに光っているのだ。石に寄せる恋。