晴天の霹靂

びっくりしました

いつみきとてか ~その古い手口はおよしなさい

私が子どもの頃は、電話というのは今のようにいちいち持って出掛けたりする必要のないもので、ずっと茶の間においてあった。掛かってくると家族の誰かが出て、誰宛なのかを聞いてその人に取り次ぐシステムだったわけだ。

時々は若い男の声で「◯◯(名字)さん居ますか」というような素っ頓狂な電話も掛かってくる。家の中にある電話なのだからそこに住んでいる人は全員がその◯◯さんに該当しているわけだけど、そういう無礼なことはまあまあ起こった。

出た家族の方も、若者の声だから私か兄かのどちらかに掛かってきた連絡網だろうと当たりを付けるのだ。当時は男子はパブリックな呼び方では「君付け」女子は「さんづけ」というふうに分けられていたので、推理のすえ電話は私に取り次がれてしまう。

誰だろうと思って私が電話に出ると「覚えてる?覚えてる?」「何年生?高校生だよね?」などと、相手の正体がわからないままに質問につきあわされ、挙げ句向こうから勝手に切れるのだ。なんだ、誰だったんだ、と考えこんだりしたものだが、数年経ってハタとひらめいたことには、当てずっぽうにかけてくるナンパで、こちらが高校生くらいだったら適当なことを行ってどこかで呼び出そうとするやつだ。電話怖い。

 

あるいはこの「覚えてる?」「どこかで会ったよね」というのは巷のナンパでもよく見かける風景でもあり、私は非常に苦手だ。ようは善意につけこんで関心を騙し取っているわけで、ニーズに合わないとなればその「設定」は礼儀もなになしに電話のガチャ切りのごとくチャラにされる。感情的なコストは、全部声をかけられた側が支払わされることになる。

 

そういうような何十年前まで遡れる憤怒をうちに抱えて「いつ見きとてか 恋しかるらむ」などと言われると、「お前なあ!」と思うのだ。百人一首よ、お前もか。

眠れないほどおもしろい百人一首: あの歌に“驚きのドラマ”あり!

もちろん今と恋愛事情も違うのはわかる。あそこに美人がいるという噂を聞けば技巧を凝らした和歌を送るのがエントリーシートで、そこで親兄弟女房たちによる一次審査を通過すればちょっと関係性ができる、というのがむしろ礼儀にかなったほぼ唯一のルートだったならば、会ったこともない人になんでも言わねばことははじまらないだろう。

それにしても「いつ見きとてか」は嫌だなあ。中納言兼輔のせいじゃないにしたって気分の悪いことを色々思い出してしまう。平安の世ならこれで粋なラブレターのうちに入るものだろうか。いや、ダサくない?

 

一方で、こうの史代さんの早覚え用『百一 hyakuichi 』ではこの歌についているイラストは素晴らしくかわいい。

なにしろ「ミカの腹、いつ見きとてか」である。

百一 hyakuichi

「そういう意味なら結構いいぞ」と思ってしばし機嫌をよくしていたのだけど、この歌、「ミカの腹」として通して読むと迂闊にもだいぶ色っぽい歌になってしまうのでびっくりした。ミカったら。