いつまで正月の話をしてるんだ、ってことではありますが、2023年末の紅白歌合戦のこと。
新年早々、お節食べつつ追いかけ再生で紅白を見ていると、唐突にさだまさしが出てきて『秋桜』を歌い始めたのです。
言わずと知れた、山口百恵のために書かれ、実際にアイドルとして人気絶頂期に結婚引退したことで人々の印象に強く残った歌です。1977年、私の生まれ年のことなのでさすがにリアルタイムでは知りませんよ。昭和生まれだからって大昔から生きてると思ったら大間違いだ。
最初は「いかにも男性が考えた想像上の母娘関係だねぇ」なんて思いながら適当に聞き流していたもんですが、そのうち腹が立ってきてしまいましてね。
やれ、結婚は苦労することだ、苦労は耐えるもんだ、何世代にも渡って女が苦労するのは変えられないことだ、結婚したからには名前のない寛容なおばあさんになるのが運命だ、って。
そりゃあ苦労させたい側の人は文句言わずに母娘代々継承されてほしいでしょうけど、だからってこんなひどい歌を、よくも芸能の世界で若くして圧倒的な業績を残したプロに歌わせたもんだな。百恵チャンはどう思って歌っていたのか。ひとり義憤にかられながら数の子を噛み締めてみますわたしなりに。
そんなことを考えていたせいか、百人一首の小野小町の歌を読んで、ほぼ条件反射で「こんなの、絶対におじさんが作った歌だろ」と思ってしまったのでした。
当代随一の歌人が?
客体であることが主な存在理由だと自らを規定して?
蓄積した知識とか経験とかのことはすっかり忘れて?
桜見てていきなり「ところで私老けちゃったわ」とか言うの?
……いやいやいや、絵札では十二単を着て向こうむいて座ってるあの人、振り返ったら絶対に顔はさだまさしでしょう。
そんなことをひっそり確信したものの、悲しいかな、さらっと見た限りではこの歌の作者が実は別人だという説はなさそうであり、なんとも残念な気持ちになる。やはりこういう決まりきった文脈に乗っ取らないと、男女間での才気煥発なやりとりは成立せず、文才を活かすこともできないのであろうか、と思うのは口惜しいことではないか。
美しい歌なのになんとかして私の好きな感じに読めないものかなあ、と色々考えていたら、手元にあった和田ラヂヲ版百人一首には、ラフレシアが咲くのを待っている女性の絵が付けてあるのを見つけた。
世界最大の花とも言われるラフレシアは数ヶ月もつぼみの状態で過ごし、花は5日程度しか咲かないうえに、肉の腐ったみたいな匂いがするらしい。
「……まあ、そういうことならいいか」
とよくわからないけど、納得した。そういうハイブローな人生もあるだろう。
現代語訳引用は『田辺聖子の小倉百人一首』から。どの訳も非常に豊穣ですばらしいと思うのだけど、小野小町だけはなんとかもうちょっと現代的に救いたい。