放っておくと共通の話題のない父74歳と「ネタを見つけて会話を楽しもう」企画の一環で、最近はせっせと自分のルーツを遡って戸籍を取り寄せては読み、取り寄せては読み、している。
庶民の戸籍など「生まれました、結婚しました、死にました」しか書いていないのだろうと思っていたら、どっこい、その短い定型文の中に無言のドラマが入っており、それらは誰に騒ぎ立てられもせず、ただ消えていこうとしていたのだということには驚かされる。
私の祖父は、イワジさん、という名で養子として育った人らしいということは戸籍を辿りはじめて比較的すぐに気づいたことだ。
「養子だったんだね」と、父に確認すると「そうかあ?」と首をひねる。
この後私は一度も会ったことがない「イワジさん」についてどんどん調べていくのだが、18年間は一緒に住んでいたはずの父はだいたい全てにおいて「そうかあ?」と首をかしげる。無理もない、人生最初の18年間なんてほぼ自分についてしか興味のない期間であるし、そうこうするうちにイワジさんは55歳で老後らしい老後のないまま亡くなってしまっているのだ。
開拓まっさかりの北海道の「原野」に移住して、戦争を挟んで8人の子をなし混乱期からの経済発展を地方で支えたが、育った子らはすべて人口密集地に吸収され、死後は誰もその地に残らなかった。その人生は不思議なほど土地の運命とシンクロしている。
しかし、イワジさんの出生は北海道ではない。大正3年、秋田の生まれである。
実の父は3回結婚した人で、最初の妻はおそらくは子ができなかったことを理由に離縁されている。2番目の妻が、男の子を2人なして1年ちょっとで死亡。3番目の妻にも息子と娘がそれぞれ生まれた。こうして3回の結婚を通じて子どもが4人生まれたところで、亡き先妻の子でありしかも次男坊だったイワジ少年7歳が養子に出されたのである。
養子先はおじいちゃんの弟「伯叔祖父」に当たる人で、子どもが育たなかったこの人はイワジ少年を養子に得ると同時に45歳で分家、北海道の炭坑に忽然と姿を現したのだ。
たった7年の間に生みの親と育ての親、2人の母と次々に別れ、大正期の北海道の炭坑などという荒っぽい土地に連れてこられた少年の心中を思うと切ないものがある。「なぜ自分だけ」と、やはり考えたのではないだろうか、とじっくり戸籍を眺めていて、もっと不穏なことに気がついた。
イワジ少年の誕生は大正3年。よく見ればその兄も、同年同日の生まれである。双子の兄弟だ。しかし兄の誕生はすぐに届けられているのに、一緒に生まれたもう一人の少年は、7歳で養子に出されるまで出生届けが出されない。どういうわけか、ずっと無戸籍である。後妻さんが来たり弟や妹が生まれると、それら届け出は順調になされているのに、兄弟のなかでイワジ少年だけが頑なにいない存在とされ続ける。
何があったのかのは、おそらくもう調べようもないだろうけど、なんとなく寂しい少年時代を連想させる経歴とは言える。
しかしイワジ少年は連れて来られた北の地で炭鉱夫として生きたのではなく、6年ののち、おそらくは同郷秋田県の開拓団が定住していた道北の「コエトイ原野」に転籍した。その時、戸主である養父は51歳、炭坑仕事のきつさもうかがわれようというところだ。
心機一転、家族総出で新天地に畑を作る暮らしを始めたのだろうが、現在この地に係累がいないことを考えると、畑作りを成功させて土地を持つ夢は結果的にあまりうまくいかなかったのではないか。
その次のイワジさんの足取りが発見できたのは、地方自治体から取り寄せた軍歴証明書である。
この「第2国民兵役に編入」というのが、調べてみればどうやら徴兵検査「丙種合格」ようするに「身体上極めて欠陥の多い者」とみなされ入営不可ということだったらしい。
しかし、おそらく戦争の激化に伴って30歳でついに召集された。輜重(しちょう)兵という、戦闘ではなく物資の運搬を担う部隊だが、しかし終戦を待つことなく、なんと一ヶ月で除隊になっている。
「圧倒的に兵力が足りてないから輸送ならいけるだろうと思って召集してみたけどやっぱり無理だわ」ということであろうか。なんでもかんでもど根性でどうにかすべし、という戦争の中にあって一度とった兵を家に帰すほどの「身体上の欠陥」といえば余程ではないか、という気がするがこの件についても父は首をひねる。
「炭鉱でじん肺とか?」
「そんなことなかったと思うけどなあ」
帰還してきたイワジさんの顔を見るなり「食べるものがない」と言った妻の話は以前書いたのだが、この時、私は大きな思い違いをしている。徴兵されたが戦地には出ていないと聞いていたので、てっきり終戦で帰ってきたのだと思いこんでたのだ。
rokusuke7korobi.hatenablog.com
実際のところは終戦の一年以上前に一人で帰ってきたのであり、そのうえで「食べるものがない」と言う妻を妊娠させ、育児、出産、授乳を全部させたのだ。のんきか。
「そんなん、ある意味DVだろ」と私なぞは思ってしまうのだが、おそらく終戦から数年後、営林署の職を得て安定した時期に撮影されたと思われる夫婦の写真は、ふたりともちょっと見惚れるほど幸せそうな顔をしている。
「帰ってきたらいっつもそうやってストーブの前にどかっと座って、焼酎三合飲むんだ」
と、写真を見て父は言う。
「あ、これお茶じゃなくて焼酎?」
「焼酎。それ買いに行かされるのが嫌でなあ」
「一日分ずつ買いに行くんだ?」
「置いとけば飲むからだろう。酒じゃなくて焼酎だからな。三合なんて俺でも飲めない」
たしかに、子どもを8人持って毎晩焼酎を三合ずつを空けていれば、普通はずいぶん健康な人だと思うだろう。
「少年時代はさみしい感じの経歴だけど、結果的にわりと幸せになれた人だったんじゃないかね」
「そうだなあ」
「これ、いい写真だよね」
「うん」
我々は共通の血縁であるところの古い夫婦の写真を覗き込む。
氷点下20℃にもなる地にあって冬にも関わらず、裸足で焼酎を飲む壮健な夫の傍らで、その妻はなにか繕いものを手ににこやかだ。ふたりとも、過去の人ではあるが、その過ごした時間は概ね幸せな人生であってほしい、といつの間にか願うものである。