晴天の霹靂

びっくりしました

祖父母の終戦

父方の祖父母に、私は会ったことがないのだが、父からこんな話を聞いたことがある。

戦争に行っていたオヤジ(私の祖父)が終戦で帰ってきたとき、オフクロ(私の祖母)は顔を見て開口一番こう言ったそうだ。

「食べるものがない」

やっと家にたどり着いた帰還兵にすれば、オイオイご挨拶な、と思ったのかどうか、あまり昔話をしない父が軽い小話にするくらい、一家の中では後々まで笑い草だったのだろうか。聞けば祖父は徴兵はされたが前線に出ることはなかったとのことなので、一応は喫緊で生命の心配をする状況ではなかったのかもしれない。

 

古い話に興味を持って戸籍謄本などを取り寄せて調べてみれば、このエピソードにも見えてくる背景がある。

6人兄弟である父の、すぐ上のお姉さんが、昭和20年9月生まれだ。つまり、戦争が終わってわずか半月ほどで生まれているのだ。

件の「食べるものがない」の瞬間、祖母は今にも産気づきそうな妊婦であったか、それとも四六時中授乳を迫る新生児を腕に抱えていたかのどちらかだったことになる。そのうえで6歳、4歳、3歳の男の子を育てる身でもあったのだ。終戦時28歳だったその人は、育ち盛りの子どもたちに食わせねばならぬ、そして自分も食わねばならぬ、ということで朝から晩まで頭がいっぱいだったのだろう。

 

もうひとつ不思議なのは、帰ってきた兵士のほうだ。終戦に合わせるように生まれた子がいるということは、その10ヶ月前くらいまでは家に居たことになる。兵も物も圧倒的に不足したという戦争のさなか、31歳男子がなぜそんなギリギリまで徴兵されずに家で暮らしていられたのだろうか。

「肺の病気でもあった?」と聞くと「いやあ、そんなことはないと思うけどな」と父は答える。あるいは、養わねばならぬ幼子を三人半も抱えた一家の働き手までを召集しはじめたということが、戦争の末期症状だったということか。「食べるものがない」と駆け寄ってくる妻に、帰還兵は何を答えたのだろう。

 

終戦の3年後に私の父は生まれ、その後も2年おきに2人生まれたが、一番下の子は育たなかった。7人生まれてそのうち6人が成長したのだと認識していた父に、戸籍上もう一人、末の妹がいたようだと伝えると、それは知らなかったと驚いた。家族というのは案外、自分たちのことを話さないものなのかもしれない。

 

一番上の子あたりはお腹空かせた記憶あるんだろうね。

畑でダイコンかじったって言ってたことあるな。

お父さんはお腹空いてた記憶ある?

ないな。

ものすごい勢いで町の経済良くなったんだねえ。

そういえばそうだなあ。

 

当時町の主力産業は木材であり、それは寒冷地における貴重な燃料でもあったし、戦後の復興需要もあって大いに栄えたようだ。

写真が趣味だった祖父が撮ったという、父を含めた子ども6人が家の前に整列した古い写真がある。年格好から察するに、終戦から5年かそこらの時のものだが、私などが「戦後」という言葉から想像するよりはるかに活気のある表情をした朗らかな写真である。