晴天の霹靂

びっくりしました

老父、車を手放す

急に気温が上がったので、ベランダやら部屋のドアなどを開けておくと、猫が得意げに家中を行き来して大変忙しそうにする。

いちいち人間にドアの開け締めを頼まずに、好きなようにどこにでもいけるのは長い冬の間はできなかったことだ。

自分の意志で移動できるというのは、猫のような小さな生き物にとっても明らかに知性と活力を増大させる重大なことだと、見ていてわかる。

 

「今月末でこの車、廃車にする」

と、恒例の月命日の霊園集合のときに老父は言った。

以前から、いつまで乗るか考えているという話はしていたが、そんなに急なことだと思っていなかったので驚いた。

「もう車検が切れるし、もう次はたぶん免許の更新が通らない」

突然、目の前の物が3つに見えるのだと父は前から言っていた。

ロッキー4のときのポーリーなら「真ん中を狙え」とでもアドバイスするところで、本人も長年の勘を生かしてそれくらいの感じでなんとかやってるんだと思っていたが、そうか、一人でそんなことまで決めていたのか。

小さな町で生まれ育って、高校卒業と同時に高度経済成長にのって都市労働者として故郷から切り離されて働きはじめ、やがて車を手に入れ、どこにでも自由に行けるようになったことは、自分が拡張して強くなっていくことの象徴でもあったのではないか。

きっと寂しいんだろうな、と思ったらちょっとぼんやりした。

 

「今どき運転できないやつは”カタワ”だからよ」

と昔、父はよく言っていた。

兄と私、ふたりの子供に「就職にしたら使うから早く自動車免許を取っておけ」という意味だ。

いかに20世紀といえども、流石に「片輪」は誰でも知っている差別用語だった。

私はそういう言葉を平気で使う癖のある父が非常に嫌だったが、これは彼の個性に由来するものというわけでもなく、あの世代は自分の優位性を誇示するために無邪気に差別的な発言をする人がとても多かった。

そしてその発言は、40代の頃に何かを思い立って自動車免許を取りに行ったはいいが、結局運転ができるようにはならなかった母のことをも「片輪」として名指していたということでもある。

どんな気持ちで、あの悪意のない(むしろ子供たちの将来に対する善意として発せられた)小さな攻撃を浴び続けていたのだろう。

 

極端に身体が小さかった母は、自動車教習場にクッションをいくつも持って通っていた。

おそらく座席を最大限まで前に出した上に、クッションで座高を上げて、それでも平均的男性が乗るように設計されている当時の普通車に乗ることが、きっとすごく怖かったのだろう。

しかし、子供二人を育てる忙しい日常をやりくりして、とにかく普通免許は取ったのだ。

大変な決意だったんだろうと、今は思うが、それほどの決断と努力を持ってしても、やはり運転はできるようにならなかった。

父はたぶん、それを「臆病で運動神経が鈍いから」くらいのことに思って「片輪」という冗談として語ることに何の痛みも感じなかったのだ。

一方の母自身は、年齢のせいにするように、私に向かって「若いうちに取りに行きなさい。教官も優しくしてくれるから」と言ったものだ。

思えば、教習場でどんな嫌な思いをして、そんなことを私に言ったのか。

 

「半世紀も運転してきて車を手放すなんて、寂しいだろうな」

と父のことを思ったあと、しばらく経ってから、「片輪」と言われ続けて何も言い返さなかった母のことを思った。

一人で運転して自由に釣りに行ったりする父のことを、どんなふうに見ていたろう。

毎日の食料を自転車で買い出しに行くことを疑問にも思わず、ただ「家に閉じ込められたおばさん」としての没個性的な人生を押し付けた家族のことをどう思っていたろう。

 

あの頃自分で名指していたところの「片輪」に、父はゆっくりとなっていくのだ。

「よかったね」

と、ほんの少し、思う。