いつの間にか手持ちの靴下は全部、自分で編んだものだけになった。
最初は、そんなつもりはなかった。靴下なら飽きる前に編み上がるし、余った糸で適当に作れるから、試しに編んでみるか。youtubeに編み方の動画もたくさんあるから教本も買わなくていいし。その程度のことだった。
編み上がって履いてみたら、あたたかい上に締め付けないから楽だし、意外にも蒸れないから木綿の靴下履いているより快適。丈も好きな長さにできるのが良い。もうちょっと、ここを増やして、ここを縮めて、と個人向けカスタマイズを積み上げていると楽しくて、いつの間にかたくさんできていた。
気に入ったのをずっと履いていて、暑いと感じる季節になったらもう靴下を履くことじたいやめてしまうから、市販の靴下を履くことはもうほぼなくなった。
最近、絶大にハマっているhuluのオリジナルドラマ『ハンドメイズ・テイル/侍女の物語』には、編み物のシーンがたくさん出てくる。
女性の仕事と財産権を奪われた世界で”司令官の妻”という最高の階層に位置する女性セリーナが、家の中でやれることが、園芸と編み物だけだからだ。
セリーナがいるところには常に編み物があるが、シーズン2あたりで突然「本当は編み物なんか大嫌いよっ」と切れるシーンがある。
なかなかよいシーンで、「よく言ったセリーヌ!」とエールを送るところではあるのだけど、なんせ靴下を編みながら見てる身としては、そうは言ってもうっすら傷つくところもある。
”女性的”とされてきた手仕事を「抑圧」として全否定するのはフェミニズムの歴史の中ですでに乗り越えられてきた段階とはいえ、それでも経済活動と関係のない工芸の地位が文化の中で低い地位に置かれ続けていることにはそれほど変わりはない。
活動的で頭が良くてなんか近づきがたい美人から「編み物なんて大嫌いっ!」と言われると、そういう文脈ではないと重々わかっているのに
「ひょっとして自分が無能だから編み物好きなんじゃないかな?」くらい自信なさのそよ風が一瞬吹くものだ。
そんな中、年末にタイムリーな本が発売されていたのを知ってついつい買って読む。
どんな時代にも女たちはいろんな動機で編みまくってきたし、男たちだって多くはないとはいえ、結構古くから編んできた。
編み物はどうやって中立的な存在になったのだろう? 考えられるベストな答えは、編み物が女性たちを抑圧する手芸である、という考え方が、擁護できないステレオタイプだったということだ。男性たちも何世紀も編み物をしてきたし、編み手たちは針や糸の奴隷にされたわけではなかった。むしろ逆に、パートナーのためにセーターを、または自分のためにポンチョを編む能力があることは、常に個人のスキルと創造性の表現、自由意志の行使の証明だったのだ。
ロレッタ ナポリオーニ. 編むことは力 ひび割れた世界のなかで、私たちの生をつなぎあわせる (pp.90-91). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.
靴下を編み進めながら、次はどの糸で何を編もうか考えている時、あれもこれもと編みたいものが思い浮かんで手が追いつかない時、毛糸は牢獄ではなくて創造力の源であることに疑いを抱きようもない。
司令官の妻セリーヌが名付けようのない牢獄の中に居て辛かったのは非常に共感するが、それを熱心に見ている私が編み物向きの性質を持っていても当然何の問題もない。
そうそう、当たり前だよな。
ありがたいことに、もやもやっとしていたことを言語化してくれている人というのは世界の中にすでに居るし、『ハンドメイズ・テイル』は止まらない面白さなので、大喜びで続きを観ながら次は帽子か手袋を編みたい。
「ハンドメイズ・テイル/侍女の物語」はシーズン3の視聴に入って、物語は停滞するどころか、いよいよちょいちょい泣かされるようになってきている。ジューンのおそるべき頑張りに刮目せよ。