日本文学における二大「もう死にます」といえば、1つ目の有名どころはやはり『夢十夜』の第一夜ではないですか。
こんな夢を見た。 腕組みをして枕元に坐っていると、仰向きに寝た女が、静かな声でもう死にますと言う。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。真白な頰の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色はむろん赤い。とうてい死にそうには見えない。
色っぽい美人がいきなり「もう死にます」とか言い出して、あれしろこれしろ注文をつけた挙げ句、百年待てとまで言って死ぬ。全部言われたとおりにしてずっと座って待ってたら、ついにぱかっと純潔の象徴・白百合が咲き、これにて童貞百年記念、という話である。一体どんな夢見てんだ、漱石よ。
そんな、生き残った方が心配な「もう死にます」はさておき、私にとってはもうひとつ印象深い「もう死にます」がもっと古くにある。
「もう死にます」に続けて、だから「冥途の土産にもう一回やっておきたい」と言ったのは和泉式部である。
”もう死にます大会”で優勝である他に、”わきまえない女大会”でもこれに勝つのはなかなか難しいのではないか。
存分に生きるためなら生死の境目を超えてくる気迫もあるし、「女はこれくらい」という性別の境界線を超えて迫りくる迫力もある。
どっちの「もう死にます」があらまほしいかと言えば、瀕死の和泉式部がゼイゼイ言いながら会いに来てくれる人生の方が圧倒的に甲斐があるんじゃないかなあ、と私は思うのだけど、どうせ百年待つならこういう人を待ってみようと思わなかったのかな、漱石。
時の天皇の皇子と不倫して離婚、勘当され、そうこうするうちに恋人があっという間に死亡。今度はその弟宮と付き合って、正妻を追い出すような形で恋愛関係になったが、また数年で死に別れ。「浮かれ女」などと陰口言われまくったというあっぱれな人生。
やっぱり感情容量のでっかい人にはその容量分だけいろんな喜び悲しみが入ってきてしまうようにできてるんだなあ、とつくづく感心してしまう。
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