晴天の霹靂

びっくりしました

サウンドイヤカフ ~散歩と読書をつなぐ橋

氷の解けはじめた春先の公園で池のまわりをひとりで歩いていて、

ふと目をあげると薄氷の上にすっと細い筆で引いたように青鷺が立っている。

「さっきからぐるり池の端を歩いていたのに、よく今の今まで気づかずかにいたものだ」

と我ながら呆れて足を止めても、鷺の方でも私のぼんやりを知っているのか、注目されたことに特別警戒するでもない。

池のあちらとこちらで、なんとなく互いを意識しあって立っていると、足音のしない雪道の向こうから、カメラを持った人がひとり駆けてきた。

それほど珍しい鳥ではないとしても、春の予感となごり雪の混在した今日の風景の中の青鷺はたしかにとりわけ美しい。

その写真愛好家に場所を譲るような気持ちでその場を離れて、しばらくして振り向くと、鷺はもうどこかへ居なくなっている。

あの鷺は私のためにああして立っていてくれたのか、と思いたくなるほど、なんだか不思議な時間だった。

だいたい白い景色の中に見るあの鳥は、少し美しすぎるようだ。

 

耳を塞がずに音を聞けるイヤカフ型のイヤホンを買ってから、外を出歩くときもずっとなにか聞いているようになった。

本当に生活が快適になったのは

「今読んでいる本がおもしろ過ぎるので中断してまで外出したくない」

というやや不健康な葛藤が減ったことだ。

iPhoneのアレクサの読書補助機能で読んでいる箇所の続きを読み上げながら、外出できる。

家の中で座っていなくても読書ができるようになり、また外から帰ってきても聞いていた続きからKindle端末で読めるようになって、これは劇的に生活をスムーズにしてくれた。

 

しかしながら、実はこれはこれでまたちょっと別の葛藤がありもする。

散歩をするなら、風景に目を向け、季節の鳥の声を聞き、今自分が歩いていることに注意を向けることこそが意義なのだという「お散歩純粋主義」が、自分の中にないではないのだ。

池に青鷺が立っていたのも、Kindleの読み上げを聴いていなかったらもっとずっと早くから気づいていたろう。

 

最近はずっと昭和史に関する本を読んでいる。

本当はもっと知っているべきなのに、なんとなくみんなが学ぶことが不得手なままやりすごしてしてしまった時代のことを、せっかく興味を持ったタイミングだからまとめて読もうとしている。

そうしてとぼとぼと下を見て歩いていて、ふと目を上げたら、幻みたいに鷺が立っていたのだ。

 

何も聞かずに歩いていたら最初から鷺に気づいたのかもしれない。

一方で、物思いにふけっていたらいきなり目の前に鷺がいて、目を離したらあっという間にいなくなった経験と、ともすればなかったことにされるという危機感の中で編まれた現代史が同時に記憶されるなら、これも読書体験の一部になるんだろうとも感じる。

読書は、もっといろんな記憶と混じり合いながら経験されていってもいいものだったような気も、するのだ。

 

 

 

 

快適すぎてわりと安いのと、わりと高いの、両方持っている。

デザイン性にこだわらないのであれば安いのでもちゃんと快適。