。我が家には猫が二匹いる。
兄と妹でそれぞれ性格が違う。
比較的おっとりしてるはずの兄の虎猫は、私が洗濯物を干しはじめると必ず大きな声で呼びにくる。
「遊べ」
ということだ。
仕方ないので、つまみあげた濡れた洗濯ものを一旦その場に置いてウワーッと奇声を発しながら追いかけまわす。
新幹線のごとく耳を倒して流線型の面構えになった猫は嬉しそうにまっしぐら部屋中を駆け回って逃げる。
隅から隅まで走り回った挙句、最後には私には入れない机の下に潜り込む。
「はいはい、終わり終わり」
私は中断した洗濯に戻る。
「続き―続き―」
と、机から這い出してきたヤツはまたでかい声で呼びに来る。
洗濯物を干し終わるまで、この繰り返しは決して終わらない。
大変に面倒くさいが、こっちからこの遊びを終わらせる権利はないのだ。
なぜなら、人間には決して面白くないこの追いかけっこに私が参加するまで、猫は倦まず弛まず大声で呼び続けるから。
猫なんか、よんでもこない。
でも、人間はよばれると行くのである。
なぜって、ほかならぬやつらだけがどんな時も必ずこの人間を必要としてくれるからだ。
『猫なんかよんでもこない』というコミックエッセイは、kindle unlimitedに入っていたからためしにちょっと、ほんの出来心で読みはじめたのだ。
漫画家のお兄さんと、世界チャンピオンを目指すプロボクサーの弟、二人暮らしのアパートに、ある日お兄さんが子猫を二匹拾ってくる。
みゃーみゃー言いながらどこにでもついて来る子猫。
自力で降りられないのにカーテンを登る子猫。
やけに気の強い妹猫と、男の子なのにおっとりしすぎることで飼い主をヤキモキさせる兄猫。
子猫時代の思い出というのは、どこの飼い主にとっても同じなんだろうか。
自分の思い出を読むように懐かしい。
猫をめぐる淡々とした日常を綴っている傍らで、実は作者の生活には挫折とか孤独とか不安とか、そういうものがいっぺんに押し寄せている。
その身に染みるような孤独が、今まさに成長しつつある猫との距離をぐんぐん縮め、それまでの人生で目に入らなかった色々なことが鮮明に意味を持って目に映るようになっていく過程が見て取れる。
友達に指摘されて、いつの間にか人間に話しかけるように普通に猫にしゃべるようになっている自分に気付くシーンがある。
きっとその時、自分の孤独の深さに気付いたんだろうな、と気持ちが少しわかる気がする。
気の弱かった雄猫が果敢に近所のボスになっていく様をみながら奮起して漫画家を目指すくだりも。
病気になってしまった猫の見守りに疲れてつらく当たってしまったことに対する後悔も。
我が身には起こったことのないことなのに、自分の走馬燈を見るような気持ちがする。
猫は呼んでもこないけど、どこの家の猫も呼ぶとちゃんと聞いてるのはみんな知ってる。
猫は呼んでもこないけど、必要とされるかぎり猫に呼ばれればいくのも、たぶんみんな同じなのだ。
呼んでもこないけど呼ばれれば行ってしまう猫の話は、きっといろんな人の走馬燈に予約されているエピソードなのだろう。