晴天の霹靂

びっくりしました

『百年の孤独』~そういうことが起こる世界もある

北国とはいえ雨であまり気温の上がらない日でも、窓を開けて風を通しておく方が気持ちよいくらいの季節には、なった。

窓の面したすぐ外には小さな公園があって、それは猫の額ほどの広さとは言え、アスファルトに覆われていない地面が木と草にぐるり取り囲まれた貴重な空間で、雨が降ると植物の匂いが風にのって部屋へ入ってくる。

 

昔。中学生のころだ。

それほどパッとしない、特に面白いことを言う習慣もないひょろっとした色白の男子生徒が突然

「雨の日はミミズの匂いがする」

と言ったことがあった。

びっくりして顔を二度見した。

そんな、他所で聞いたことがないような表現の仕方で雨を表現するようなタイプの人だと思ったことがなかったせいだ。

なるほどミミズか、と思った。

 

地方都市とはいえ、それなりの規模の都市部に住んでいて、彼のイメージしていた「ミミズの匂い」にどれくらい確実な根拠があったのかはもとより確認しようもない。

ただ雨の日が独特の匂いと湿度を室内にまで運んでくることと、自己と内側と外側の区別が極めて脆く見えるあの単純な生命体の印象とを並べて思い出すと、そういわれてみれば、そういう表現でしか、「室内で感じる雨が迫ってくる気配」というものを正確に言い表すことなどできないような気がしてやたら感動した。

 

客観的な正確さとは別の厳密さで、その表現でしかあらわせないリアリズムというものに、思いがけないところで出会うことがある。

そして何が起こっても不思議でない世界というのは、やっぱり雨とか風とか植物とか、常に揺れて動くものの気配の中にある。 

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)
 

 

雨の日に読む『百年の孤独』は、だからまた一層面白い。

誰が誰やらわからなくなるまで同じ名前を繰り返される過剰な個性に埋め尽くされた一族も、

豚のしっぽを持つと予言される子どもの出生も、

チョコレートで空中浮遊する神父も、

四年と十一か月と二日止まない雨も、

どこを切っても同じことばかり起こっているようでありながら、ちょっとずつ変化している時間の流れも、

湿った風と雨音の中で読んでいると、さほど奇異でもなくなってくる。

 

緻密なエピソードでびっしり埋め尽くされて、どこからはじまってどこで終わるというのでもない、百年存続した一族があって、それが予言通り滅びただけのこと。

頭から読んで最後まで読み終わる必要もないのだけど、だけどまあ、外は雨だし、吹き込んでくる風も気持ちがいいから、もう少しマコンドのゴシップを読んでいてもいいような気がする。

 

窓の外を確認すると、近頃咲き始めた極彩色のルピナスの群れが雨に濡れて一層どぎつい色になって先ほどより一歩前へ出たところに立ち尽くしている。

いつの間にかそういうことが起こる世界もあるのだ。

 

 

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)