週末、猫の月命日だったので神社へ行ってきた。
ご近所の神様ゆえ、住所を告げて「うちに帰りたそうにしてたら連れてきてやってください」とねんごろにお願いする。
朝晩線香をたき、暑い盛りに花が絶えないように小まめに面倒をみたり、なんやかや手数がかかるせいか、いなくなったという心持があまりしない。
洗濯をしてても邪魔しにこなくなったとか、明け方にフライングボディプレスをかけてこないとか、クリームパンみたいな形の前足をふにふにできないとか、欠伸をしたところに指を突っ込むいたずらをできないとか、生活の折々に「あの肉体がないんだな」と感じることはしばしばある。
それらはちょっとつまらないことではあるのだけど、肉体があってもなくてもうちの猫は相変わらずうちの猫なのは思いがけず面白い現象だ。
肉体をなくしたぶんパワーアップして我が家に遊んでいる感覚すらあるものだ。
心覚えのない物音がしたり、室内に気配を感じたりすると「来たの?ゆっくりしていきな」と臆面もなく声を掛けて一向にはばからない。
これがつまりは臨在感というものかと感心しつつ、これほど鮮明なものでもまた、やがて時とともに薄れていってしまうとは信じがたい予感である。
お盆が近いせいか、切り花の値段が少し高くなった。
さてこれは困ったことになったぞ、と思いながらも、やっぱり百円くらいのことで無邪気に遊ぶ魂に寂しい思いをさせてはならじ、と己のおかずをもやしに変えてでも買って帰るのである(一部誇張表現アリ)。
黄泉の方では死後35日目が閻魔の裁判だという。
七日ごとの裁判の五番目にして著名なる重鎮裁判官の登場である。
人間と猫は同じルートではないというが、それにしてもあの子もそろそろ近くには居るだろう。
閻魔は猫好きか。そして傍聴席ってないものか。