猫死んでしづかにしづかに猫じやらし 加藤秋邨
日めくりをめくったらいきなり「猫死んで」などと書いてあるので、朝からなんだかびっくりした。
飼い主は猫より長生きするのが最低限の使命であるからして、だいたいの猫好きは猫の死の思い出を持ちながら生きてるってもんであろう。
天気さえよければ日中はわりと暖かく日暮れには涼しくなる秋の陽気。我が家に、小さくて頼りなげな糸トンボが迷いこんでくる。
天井の照明あたりに寄るのであちこちに羽のぶつかる細かい音がして、我が家の黒猫を誘ってしまうのだ。
あちらから見上げ、こちらで待ち伏せし、などしていたが、さしもの猫も天井のトンボまでは手も足も出ない。
「あれ取って。あのおもちゃちょーだい」
などと、私に向かってねだりに来る。
外に出さない猫ゆえ、こんな小さなトンボ一匹でそこまでテンション爆上がりしてしまうほど娯楽の限られた暮らしを強いているのは本当に申し訳ないとは思っているが、
「だが、しかし考えてもみてご覧」
と私は思う。
こんな北国で寒くなってからのトンボとあってはもう長くもない寿命、きっとトンボのほうでも残された天寿についていろんな計算があるに違いないよ。
「それに。お兄ちゃんかもしれないじゃないか」
2年前になくなった先代猫を看取った長い夜「どんな姿でもいいからいつでも帰っておいで」と言い言い過ごした思い出のせいで、部屋にふらっと入ってくる生命体にたいしては「あの子かな?」と思う癖がついた。
バッタであろうが、トンボであろうが、今はなき猫が我が家を偵察するために乗ってきた乗り物である可能性がある、というストーリーのもとで過ごしてしまう昨今、肌寒い季節の小さなトンボはひときわ不憫に見えるのだ。
「また遊びに来られるように帰してあげようね」
などと、理解ありそげなことを一応言いつつ、実のところ猫が目を離した隙を狙って大急ぎで窓から追い払うように逃がす。
この子も、子猫時代に先代にずいぶん面倒を見てもらった恩は決して忘れてはいまいが、それでもトンボに関するセンチメンタルなフィクションの共有までは難しいはずだ。
かくしてキョトンとした黒い顔に思い出したように
「さっきなんか新しいおもちゃあったような気がするんだけど、あれどうしたんだっけ?」
と責め立てられる秋の夜。
この子だって元気でうちに住んでくれてるのだから、もう少し時間を割いて遊んであげるようにしよう。