晴天の霹靂

びっくりしました

繰り返す季節と誰かの生活を散歩する

お手洗いにかけてあるカレンダーが傾いているのを見て、さては今年も日めくりが軽くなる季節になったのだと実感した。

愛用の俳句日めくりによると、今日は子規忌である。

 

列島のずっと下のほうにいる台風の影響で、強めの雨と風である。

パソコンに向かっていて疲れてきて、ちょっと外を歩いてきたいところではあるが、ふらっと外に出る陽気とはいいがたい。

代わりに、床に転がっている『東京の生活史』を開く。

なぜ床に転がっているのかといえば、まず第一にうちの猫が分厚い本に顔をこすりつけるのが大好きだからであり、第二に大きいのでしまい込むと取り出すのが面倒になってしまいかねないのだ。

おかげで猫も私も、かわるがわる親しんでいる。よい買い物だった。

 

そうそうそう。すぐ隣がスーパーだし、八百屋さんに魚屋さんにあるでしょ。そういうのは便利だったやっぱし。商店街に住んでたからね。で、そこのスーパーができたでしょ?そしたらみんなやめちゃった。隣の八百屋もすぐやめちゃった。隣が八百屋だから、近いから便利だったわよ。鍋かけといて吹っ飛んで買い物行ってさ。

 ほほほほ。だからそういう面でほんと便利だったのよ。商店街だから、それが、スーパーができたら、パン屋さんも。パン屋さんは少しスーパーに入れてたのよ。作って。その隣は文房具屋さんだった。駐車場の向こうが文房具屋さんで、その向こうがパン屋さんで、その向こうが乾物屋さん。そういうふうにみんなあったの。その向こうに電器屋さんがあって、で角曲がって豆腐屋さんがあって。お豆腐屋さん今でもあるでしょ?だから便利だったわね。 

『東京の生活史』よりp347

 

知らない人がしゃべって知らない人が聞いた知らない商店街の話だが、落語の言い立てみたいに気持ちよくて、繰り返して読んでしまう。

「角曲がって豆腐屋さん」というのがいい。

もちろん、鍋かけてから走っていけば間に合う八百屋さんというのもいい。

小さな商店の話を、私が好む傾向にあるのは、大型商店によってそういうものが消滅していくはざかいの時代に育ったせいなのかもしれない。

ひとつひとつが完結して独立した宇宙の話のように魅力的で、豆腐屋さんや魚屋さんや文房具屋さんの話は、ずっと聞いていたくなる。

 

『東京の生活史』は、語った人の名前は入っていたりいなかったりするが、聞いた人の話はきちんと全部書いてある。

誰が語るか以上に誰が聞くか、と重視した編集を見ていると、最後の仕上げが「誰が読むか」というところにあることを強く意識する。

人の生活史の中をさまよい歩くことで、読みながら自分の生活史を発見しようとしている。

忘れている言葉、忘れている日常が、ふいに意識に上がってくるのではないかと思ってページをめくりながら、「記憶の中にうずもれている単語」を探す。

ちょっとぼんやりして無意識まかせで、散歩をしているときの精神状態に似ている。