晴天の霹靂

びっくりしました

まことに厠は虫の音によく、鳥の声によく、月夜にもまたふさわしく

洗濯物を干す前にはスマートスピーカーに向かって必ず

「アレクサ、今日雨降る?」

というお伺いを立てるのだけど、ジェフ・ベゾスが面白がって私をからかってるんじゃないかと疑うくらいの頻度でそれは当たらない。

アレクサの予言を信じて外干しをし、最後に洗濯機のフィルターの掃除をして、さて、と振り向いたらもう雨が降り始めていた。

「アレクサ、天気予報ってカンで言ってるの?」

と聞いてみたら、いつもより陽気な声で

「カンです」

と答えたのでびっくりした。AIも開き直るとは。

 

庇の下なので、まだ雨粒はほぼあたっていないはずの洗濯物を取り込めば、布が揺れるたびに雨の匂いが染み込んでいる。

こういうときに「あ、みみずの匂い」と思うのは、我ながら少し不思議なことである。

みみずの匂いなど意識的にかいだことがあるわけではないので、単に嗅覚と視覚がクロスした連想ゲームだ。

雨に関連のある情景は何もみみずだけではないのに、どうしてとりわけみみずが想起されるのか。

 

秋はみみずが鳴いて、春は亀が鳴くのだと知ったのは、四季豊かな自然の中を散策中ではなく、家の狭いトイレに居たときだ。

今年は俳句日めくりカレンダーを買って、日々トイレで隅々まで熟読したのが実に楽しかった。

 

俳句というのはその日の季節感にあったものをトイレで一日一句くらいずつ読むのが一番楽しいという認識はもっと広まるべきではないか。

かの谷崎潤一郎も『陰翳礼讃』で、季節感を知るにはトイレが最高と言ってる。

 

まことに厠は虫の音によく、鳥の声によく、月夜にもまたふさわしく、四季おり/\の物のあわれを味わうのに最も適した場所であって、恐らく古来の俳人は此処から無数の題材を得ているであろう。(青空文庫 谷崎潤一郎『陰翳礼讃』)

 

数々の俳句が厠で着想されたのであれば、読むほうも厠で読むのは道理に叶うはずだ。

もっともこのあと谷崎先生は、水洗式の真っ白の磁気の便器やらぴかぴか光る金属の把手、あるいはむき出しの明るい空間などは実に下品だと口を極めて罵っているので、我が家のトイレなど厠の風上にも置けぬものではある。

それでもトイレが外界からある程度遮断された瞑想的な異空間であることは今でも変わりがない。

まして、どこに居てもGAFAというビッグブラザーに24時間監視されている現代、トイレのように自由な空間が貴重であれば、やはり季節感のようなものはそこで育ちうるのではないだろうか。

 

そうか蚯蚓(みみず)も亀も、本当は鳴かないけれど、何かもの寂しさを感じた人の共感ために、秋には蚯蚓が鳴き、春には亀が鳴くのだな、と知る。

雨の日、乾いた家に暮らす人間が一瞬、アスファルトの上で命尽きていく哀れな蚯蚓の姿をふっと連想して、悲しみの世界を想う。

そういう言葉だって、まだ私が知らないだけでどこかにあるかもしれないのだ。

 

 

 

 

あんまり楽しいのでもちろん来年分も買った。

おもしろいのは、日付がわりと小さいために

「へー、芭蕉の命日なのかあ。今日は何日だったかなあ」

などと、カレンダーを見ながら考えてる時があること。

読み物なので、日付はおまけである。