家の 猫が入院して、どうにも固い文章の小説が頭に入ってこなくなってしまったので猫の登場する本ばかり漁っては読んでいる。
猫好きの怪談作家が弱った子猫を拾うエッセイ集だ。
拾ってきたはいいが衰弱しているところにもってきて猫白血病キャリアという、なかなか困難な縁を探り探りで深めていく様子である。
飼い主の方まで体重が減ったり胃が痛くなったりしながら子猫を育てる様子に、いちいち臨場感がある。
いかにも危なっかしい未熟な体力と、何をも恐れぬ成長期の生命力と、その究極のシーソーゲームは読んでるだけで愛らしくも疲労困憊の種にもなる。
それほど難しい病気を抱えた子でないとしても、手の平に乗るくらいのサイズの子猫たるもの、何かっていうとすぐ命を盾にとってこっちの腹の座り具合を試してくるものだ。
本猫には試すなんてつもりはないのではあろうが、とにかく死生観やら覚悟やら生き方やら色々なものを白日の下にさらされ、悩み、葛藤に息も絶え絶えのところでやっと折り合いをつけて共同生活を作り上げる結果になる。
加門七海さんは普段から神やら霊やら不思議なものに縁のある人だから、本書は猫が生死の分かれ目を見せつけるたびに自然とそういうものと対峙することになる、不思議の記録になっている。
病身の猫の身体から出てくる幻想の虫たちも、光の粉も、魂の離脱も、いずれ見たこともない現象だけど、さりとて荒唐無稽という感じもしない。
猫のののちゃんと作者の間の生活のリアルであることが容易に想像できる。
我が家の虎猫は来た当初、トイレがうまくいかなかった。
どういうわけだか毛布やクッションのようなふかふかしたものを見るとそこに用を足すように条件付けされてしまっており、トイレや砂をどんなに変えても猫トイレの存在を理解しない。
それだけなら、猫を飼うのが初めての私であってもきっと気長に待てたのだ。
どこで聞き及んだのかもう覚えてないが「習慣は三か月くらいまでに教えないと大人になったらもう癖は治らない」という話を信じこんだ結果、ちょうど三か月になんなんとしていた猫に私はたいそう焦ってしまった。
この子が一生トイレを使えない子になってしまっては平和な共同生活を送ることが難しい、と勝手に思いつめた。
思えば、「言っても通じない」ということがとても悲しかったのだ。
猫相手に「ここでおしっこするんだよ」という言葉が通じないからと言って別に不思議でないことはちょっと考えれば分かることだが、
こんなに愛情を持っているのに言葉が通じないなんて理不尽だ、という思いに大真面目に傷ついた。
こんなにも「真剣に理屈の通った話し方をすればどんな相手にでも通じるはずだ」という思い込みの上に生きてきたなんて、子猫と暮らし始めるまでちっとも意識していなかった。
猫に言葉が通じなくて落ち込むなんて笑い話みたいだけど、でもその時の私と子猫の間に起こった現実は実際そうだったのだ。
そしてこの猫トイレ案件はまた妙なことに神様が関係してくる。
ちょうどお正月、年が明けたばかりの深夜の雪道を踏んで近くの神社へ詣り
「あの子がトイレを覚えられますように」
とお願いしたことを、とてもよく覚えている。
そうして穏やかな気持ちで家に帰ったら、おもしろいことにその時以降猫は一度もトイレを失敗しなくなった。
これを「時が来て自然に覚えた」と解釈するのも、「神様が願いを聞いてくれた」と解釈するのも、「猫には言葉よりも態度の方が通じるのだ」と解釈するのも可能で、それこそが普段から自分の人生に対して持っているストーリーというものなんだろう。
私は「不思議なものとの縁」の多い人間ではないが、猫が来て以来比較的近所の神社とはねんごろにするようになっている。
そして今も、あの頃トイレのお願いをしたのと同じように、近所の神様に猫のことを頼みに行っている。
「あの子が元気になったらお礼にちょっといいお酒を持ってきます、お願いします」