家の近くにはそこそこ立派な鎮守の森を抱く神社があり、日頃から割と心やすくしてもらっている。
隣接する公園の管理棟の休憩室では、おそらく公園管理で伐採した木材を使っているのであろう薪ストーブに火が入って暖かい。
ああ、やっぱり薪ストーブの暖かさってなにか骨にしみるようなところがあるねえ。
などと機嫌よくしていると傍らに地域の古い写真集などあるのを見つけ、その手のものが好きな私はおもわず座り込んで見入ってしまう。
冬の短い日の中で、ストーブに当たりながら見るどこの誰とも知らない人の白黒写真は、なんだかわけもなく懐かしいような気がしてくる。
ああ、いかんいかんお参りに来たのだった、日が暮れてしまう。
慌てて立ちあがってぐるり公園を遠回りして日の暮れかけた神社へ。
黄昏時の神社はあまり行かないほうがいいものだけど、普段から親しくしてる氏神さまには結構甘えても大丈夫なもんだ、なんてことを加門七海がどこかに書いていたような気がする。
まあ、実際ご近所さんってそういうものかもしれない。
落ち葉が濡れる甘い匂いに包まれた境内は賽銭箱の端のところにちょこんとアルコール消毒用のポンプがのっている。
ものすごく目になじまない珍景だが、まあそうか、ここで小銭を触って鈴を鳴らしたあとは、アルコールで消毒してお参り、というのが神様の領域と人間の領域の精一杯の妥協点ってものか。
神社に通って面白いのは、だんだんとお参りで言うことが増えていくことだ。
「近所に住んでるワタシですけど、あの子とあの子の健康を願ってます。それからあの人の冥福とあの人の幸福を願ってます。それから仕事うまくいきますように。今アレとコレで悩んでますんでここはひとつ、いい方選べますように」
云々云々。
年を取るってのは、こういうものの前に立ったときに話が長くなることなのか、と思いがけず実感する。
荷造りの下手な旅人みたいに、自分の責任では持ちきれない色んなものをボロボロとあちこちのポケットからこぼしながらよろよろ歩いていく、そういうのもちょっと悪くない。
話長くなりました暮れ方に本当にすみませんでした、と平身低頭、鳥居をくぐって出ていけば立派なニレの木に守られた社殿は堂々と闇に沈みゆくところで、神社たるものたいそう気持ちがいい。
たまに読みたくなって、読むと神社に行きたくなるのが加門七海さんである。