近所の神社に夏越の祓の茅の輪が出ていてちょっと驚いた。
昨年のこの時期は出ていなかったからだ。
感染症対策で取りやめていたんだろうか。
昨年の今ごろのことを、とりわけよく覚えているのは先代虎猫の一周忌だからだ。
ちょうど一年前、どうもなんだか猫の様子がおかしいというので動物病院につれていくと、もうすっかり腎臓が悪くて、成すすべもないまま、たったの一週間で全部終わってしまった。
家にいるときはそれこそ目も離さずにいたが、入院させていた数日間はお参りに通ったのだ。
だって、どうしようもない。
できることが何もないから、できるだけ意味のないことを懸命にした。
「あの子を治してくれたら、お礼に良いお酒をお供えにきます」
とそう祈ってくぐった鳥居に、あの年、茅の輪はなかった。
その後、お礼のお酒を供えにくることはなかったけれど、それでも氏神様とは結局仲良くはなって、月命日には「向こう側にいるあの子とうちにいるあの子」の安寧をお願いにきている。
私が何をやってもひとつの生き物の寿命が変えられないことはもちろんわかっていたし、動かし難く限られた寿命を持ってうちに来てくれたからこそ大事な猫だった。
陽射しに焼かれて夏の牧草地みたいな匂いのする茅の輪を八の字にくぐりながら、あの時「良いお酒」を飲みそびれた神様に向かってまたなんだかんだと細かい注文をする。
個体は頑張ろうが頑張るまいが寿命が来たら死ぬ。
それがずーっとずーっと連綿と続いてきた末に今地球上にあるだけの生命が結果として残っている。
進化論はじゅうぶんに魅力的で奇跡的なことであるが、それでもときどき神様に愚にもつかないオーダーも出しに来たい気持ちにはなるのだ。
なにもできることがないときは、なにか無駄なことをするといい。
できるだけ景気よく鳴り響くように柏手を打って一礼。
疑いようもなく実存が本質に先立っている自由奔放な黒猫のもとへ、いそいそとして帰る。
あれから一年。
ずいぶん傷ついていた君もすっかり元気になって、私は嬉しい。