ミグノンという犬猫保護のための活動を行っている団体の代表である友森玲子さんという人が、「動物を介護するのは人生のご褒美みたいな時間である」という話をしているのを以前どこかで読んだことがある。
それ以上には説明がなく、それっきりの言葉だったので具体的な想像は難しかったのだけど強く印象に残る言葉だった。
さて我が家の猫を、四日間の入院生活に見切りをつけて連れかえってきた。
彼の衰弱になす術もなく同じ空間にいると、なるほどずいぶんと静かな時間が流れることに驚いた。
できれば一ミリでも近づいて一秒でも多く撫でていたいところではあるが、なにぶん弱みを見せることを嫌う動物であるので、お互いに手の届かないところにまで離れはする。
それでも存在が眼の端あたりに認識できるところにそれぞれいる。
本を読んでいても、ただぼんやりと見つめていても、一向に時間が無駄に経過する気がしない。
瞑想にも似た、ただそこにあるだけで充実しているという、ずいぶん贅沢な時間の流れ方だ。
この感じはあるいは「旅の時間」にも似ている。
地元の駅はもう出発してしまったけど、まだ目的地には到着していない。
その間は、まるで自分が誰でもないかのように感じる。
ただ「移動」ということのためだけに占められた、ボーナスみたいな、人生からこっそり盗んだみたいな時間。
何をしていても絶対に無駄にならない贅沢の時間。
宮沢賢治が親友や妹の死に托して壮大な鉄道旅行を空想したのは、この「移動時間の感覚」ゆえなのかもしれない。
あるいは鉄道オタクの内田百けん老人が行方不明の猫の不在を受け入れるまでの時間の経過にあんなにこだわって詳細な記録をしたのも、「旅の時間感覚」に似ていたからかもしれない。
ごろんと横たわる猫を視界の隅において『銀河鉄道の夜』を読む。
時々目を上げて呼吸に合わせて縞模様の腹が上下しているのを確認しては、やっぱり何か汽車に似た感じを持つ。
がたんごとん、がたんごとん。
そうか、子どものころから幾度も読んでいた『銀河鉄道の夜』は、こんな旅のことだったのだ。