老作家の家に居ついた若い野良猫がある日庭のトクサの繁みを抜けてそのまま居なくなってしまったのを、身も世もあらぬと言ったていでひたすら悲しみ続ける随筆である。
猫を飼う前からよく読んでいて、自分が猫など飼い始めたら悲しくて読めなくなるのではないか、と思ったものが、相変わらずよく読む。
さすがに自分の飼い猫の健康に何かあったらもう読めないのではないか、とも思ったものだが一向お構いなしに、やっぱり面白く読む。
自分は性根のところ、相当薄情にできてるなと思うのはこういうところである。
ノラがかわいくてかわいくて何も手につかなくなる様子は微塵も疑うものではないが、この際堂々と「弱気でダメなおじいちゃんごっこ」に開き直ってる様子もうかがえるのだ。
最初は猫の心配をしてくれていた身辺の人々も、泣きやまない百けん老人の方を持て余して途方にくれてる様子があるし、老人のほうでもそれをわかってちょっと面白がってる様子までなんとなく想像できてしまう。
それらを面白がってるとして、猫への心配がいささかも割引されるわけではないが、「身も世もあらぬ寂しさ」と「ちょっとしたいじわる」を同時に起動させることができる感性というのは私には身近に感じられる。
ここのところ、うちの猫が入院しているので、いつも寝るときに二匹の猫で渋滞していた布団の上が心細く空いている。
二匹の猫は私の脚の上で縦列駐車で寝るのがならいであり、無断駐車された人間の方では寝返りが打てずにたいそう腰が痛かった。
それが突然、めっきり腰が痛まなくなり、おもしろくないのだ。
寒々と空いている寝床の中でスマホなど見ていると、少し前に撮影したかの猫の動画が目に触れる。
買ったばかりの新しいおもちゃに興奮しすぎた猫がグルングルン周り続けて目を回しへなへなと腰を抜かしながらまだ猫じゃらしを見ている様子だ。
近年最大の滑らないおもしろ猫動画である。
なんとなくうっかり再生したら、それがあまりにも元気いっぱいで、あまりにも最近のことであるのに愕然としてうっかり涙ぐむ。
涙ぐむのと同時に動画がおかしくて笑い出したところで、あっちの感情とこっちの感情が混じって「アオオン」というような妙な声になってでる。
「あ、今なんか縄張りを主張するときのおす猫みたいな声が出た!」
と思ったことがまた妙におかしくて笑い声が少し大きくなる。
ところに、自分の声にびっくりして涙声も少し大きくなる。
そうなってくると、もう訳の分からない感情の蓋を開けたことが気持ちよくなって
「我ながらなんか面白い声がでたから試しにもう一回再生してみよう」
などとやり始めるのである。
猫の不在による寂しさや悲しさが本物でないとは言わないが、かように根っこのところにいまいち自分を信用できない何かが横たわっている。
感情に、少し芝居がかったところがある。
そんな立場からすると百けん老人は、猫をかわいがるところと、信用ならないところが信用できるのだ。