ゲーテの戯曲『ファウスト』は前にも一度読んだことがあったんですが、スケールが壮大なこともあり、筋を追うので精いっぱいだった感がありました。
ゲーテの熱量がとにかく異常だなとまでは思ったものの、文学作品としてはたぶんそれほど強い印象はなかったのです。
楽しんだというよりは教養としていっちょかんでみた、という印象の方が強めだった、と言いましょうか。
今回、「手塚富雄訳がいいよ」という噂を聞き及び、調べると読売文学賞も取った訳だというので、ちょっと読み直してみました。
たしかに名訳であることもさることながら、『ファウスト』にたいする印象そのものが結構変わるのが大変に面白かったのです。
訳によってこんなに印象が変わるとなると、ちょっと他の訳も読んでみたい、という欲が出るのですが手塚富雄訳だけで文庫本なのに1600円とかしますから(しかも二冊組)、予算の都合上そんなに『ファウスト』ばっかりやたらに買うのも厳しい。
ここで燦然と輝くのが日本最初の完訳、森鴎外大先生です。
何しろ100年前に死んでらっしゃる文豪の著作物ですからデジタルならタダ。
畏れ多くもTADA。
とはいえ鴎外の文章、どうせ読みにくいだろうと思いながら
「まあTADAだから試しに」
と思ってダウンロードしたんですが、これが衝撃でした。
もう、身体が何らかの汁が迸り、歯が浮き、腰が抜けるのではないかというほどのエロさです。
せっかくだから比べてみましょう。
若返った老ファウスト博士が少女マルガレーテを初デートで口説くシーンです。
私が一番最初に読んだ(定額サービスkindle unlimitedで読める)訳から
ファウスト 「可愛らしい!」
マーガレット 「アレ を し ます わ!」 (マーガレット、 アスター を 一輪 摘み、 一片 ずつ 千 切る)
ファウスト 「何 が 出来 ます か? ブーケ?」
マーガレット 「いいえ。 ただ の ゲーム です」
ファウスト 「ほう?」
マーガレット 「ええ! 多分 笑わ れ て しまう わ」 (花 を 千切り、 呟く)
ファウスト 「何 を 呟い て いる の だい?」
マーガレット( 小声 で) 「好き、 嫌い」
ファウスト 「天女 の よう な 可愛らし さ だ!」
マーガレット( 続け て) 「好き、 嫌い、 好き、 嫌い。 (最後 の 一片 を 千切り、 喜び 微笑ん で) 好き!」
ファウスト 「ああ、 そう とも! この 花 占い を 神 の お告げ と 思っ て くれ。 私 は 君 が 好き だ! 好き の 意味 が 分かる かい? 愛し て いる の だ!」 (ファウスト、 マーガレット の 手 を 取る)
水上基地; ゲーテ. ゲーテファウスト現代語翻訳版: 合冊版 (現代語訳文庫) (Kindle の位置No.2185-2205). 水上基地. Kindle 版.
まあまあ、わかりますね。
花占いをしてる少女と、それを見て鼻の下を伸ばしている男です。なるほどなるほど。
ファウスト かわいい ひと!
マルガレーテ あの、 ちょっと。 (アスター の 花 を 一輪 摘ん で、 その 花びら を 一 ひら 一 ひら むしる)
ファウスト どう する の。 花束?
マルガレーテ いいえ、 ほんの いたずら。
ファウスト どんな?
マルガレーテ いや。 お笑い に なる から。〔 3180〕 (花びら を むしり ながら。 つぶやく)
ファウスト なに を 言っ てる の。
マルガレーテ ( やっと 聞き とれる ほどの 声 で) わたし を―― 愛し て いらっしゃる―― いらっしゃら ない――
ファウスト なんと いう あどけな さ だろ う。
マルガレーテ ( 言い つづける) 愛し て いらっしゃる―― いらっしゃら ない―― 愛し て いらっしゃる―― いらっしゃら ない―― (最後 の 一枚 を むしり、 うれし さに 声 を はずま せ て) 愛し て いらっしゃる―― わたし を。
ファウスト 愛し て いる とも、 おまえ を。 この 花 の 占い を 神 の お告げ だ と 思う が いい。 おまえ を 愛し て いる。 この ことば の 意味 が わかる かい。 おまえ を 愛し て いる の だ よ。
(マルガレーテ の 両手 を とる)
ゲーテ. ファウスト 悲劇第一部 (中公文庫) (Kindle の位置No.2466-2482). Chuokoron-shinsha,Inc.. Kindle 版.
少女のモジモジ感と、回春老人の前のめり感がぐっと引き立って一気に感情移入しやすいメロドラマになってるように思います。
そして鴎外先生。
ファウスト 可 哀 い 事 を 言う ね。
マルガレエテ ちょっと 御免 なさい まし。 (アステル の 花 を 摘み、 弁 を 一枚 一枚 むしる。)
ファウスト どう する の。 花束。
マルガレエテ いいえ。 遊事 です の。
ファウスト え。
マルガレエテ 厭。 お 笑 あそばす から。 3180
(マルガレエテ 弁 を むしり つ ゝ つぶやく。)
ファウスト 何 を 言っ て いる の。
マルガレエテ ( 中音 にて。) お 好。 お 嫌。
ファウスト 可 哀 い 顔 を し て いる こと ね。
マルガレエテ ( 依然 つぶやく。) お 好。 お 嫌。 お 好。 お 嫌。 (最後 の 弁 を むしり て、 さも 喜ばし げ に。)お 好 だ わ。
ファウスト 好 だ とも。 その 花 の 占 を 神 々 の 詞 だ と お 思。 わたし は きっと お前 を 好い て いる。 3185 お前 分る かい。 男 に 好か れ て いる と 云う 意味 が。
(ファウスト 娘 の 両手 を 把 る。)
ゲーテ ヨハン・ヴォルフガング・フォン. ファウスト (Kindle の位置No.2639-2651). . Kindle 版.
エロい、エロすぎる。
完膚なきまでに表現されたロリコン趣味、そして脳内に否応なしに立ち上がる角川アイドル映画風イメージ。
こじんまりと和服を着た山口百恵が小さく肩を左右に揺らしているかのようなっ!
(もう少し真剣味のあるこというと、こんなにも無駄な言葉がないのに、これほどの情緒出るのすごいですね)
読んでいくと、他のシーンでは鴎外訳はたしかに新しい訳よりちょっと堅くて読みにくいように感じられるところ多々あるのですが、こと少女マルガレーテが出てくるシーンに関しての情感は異常なのです。
なぜか。
ここで思い出すのは鴎外の実体験がベースと言われる小説『舞姫』。
ドイツ留学時代、幸薄の少女エリスをはらませ、赤ん坊が生まれたところで自分の出世のために母子を捨てて突如単身帰国。
残されたエリスが悲嘆のあまり発狂、という経験がありました。
経験だけでもずいぶんなことですが、なぜかその顛末をまるで自分が何かの被害者であるかのような陶酔感たっぷりのお美しい小説にしたて、文豪として一躍名を成すという、凡人には理解しがたい文才の発露に及んでいます。
人としてどうなんだ、っていうかあんたは悪魔か。
一方ゲーテが描いた老人ファウスト博士は、高名な学者でありながら世の真実に一向に近づけない虚しさから絶望し、悪魔を相手に「この世で自分を満足させることができれば魂をやる」という契約を交わします。
悪魔の手引きで若返りの薬を飲み、青年になったファウストは美少女マルガレーテを誘惑、はらませ、母親を毒殺、兄を決闘によって殺したあげく、逃亡。
逃亡先での乱痴気騒ぎの後、ほとぼり冷まして戻ってみれば、嬰児殺しの罪で投獄されているマルガレーテはすでに発狂しているのです。
なんとまあ『舞姫』そのものではないですか。
どうりで尋常じゃない量の情感がこもっているし、あれほどの陶酔をもって『舞姫』を書ける鴎外ですから、『ファウスト』を訳すのもさぞ我がこととして気持ちよかっただろうと推測されるのです。
鴎外の「人としては完全にどうかしてるけれども、芸術家としては他の追随を許さない」部分の才能が存分に発揮されているのでしょう。
必ずしも現代の感覚で一番読みやすいとまでは言えないので、最初に全体を読むのにおすすめするものではないですが、全体の筋をざっと知っている人であれば好きなシーンを、あるいはメロドラマっぽいシーンを選んで鴎外訳で読むの、なかなかに痺れる読書体験だと思います。
ゲーテという人もヤバいし、鴎外という人もヤバいのでコラボの結果、刺激過剰な新たなる作品になっている。
これほど名文なのに電子書籍ならTADAですし。信じがたい。
ちなみにソクーロフによる映画化作品。これまでの人生で見てきた映画の中で最も眠気と闘い、最も歯を食いしばって見た作品のひとつだと思う(頑張ったけど理解はできず)。