晴天の霹靂

びっくりしました

紙で読むか電子で読むか ~電子書籍論争再び

本の収納場所に関する悩みは、本格的に電子書籍派に乗り換えたことでほぼ解決したと思っていた。

あの本を読むまでは。

 

私の中の寝た子を起こしにきたのは『わたしがしらないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる』という長い文章の中の、ほんの一ページ程度の情報だ。

松岡正剛のマーキング読書法が紹介されている。

傍線やアンダーライン、キーワードやセンテンス同士を線でつないだりする独特の読み方だ。

しかも特別勧める意味で触れてあるわけでもなく、「自分の本にしか使えない」「再読の邪魔になる」など、一長一短ある方法として簡単に触れてある程度の紹介である。

 

ところが、これが私の胸に刺さってしまう。

もともと資料として手元に置いてある本や図録などはみっちり書き込みをするのが好きなのだ。

なんなら紙を貼ってページ数を増やしてでも書き込みをする。

(情けない話を追加するならば、自分を最大のサンプルケースとしていることに由来する偏見かもしれないけど、こういう「書きこむこと自体がうれしい」みたいな文献の扱い方をする人って、自己陶酔型で勉強熱心だけどいつまでたっても成果はあがらないタイプが多いような気がする。ノートがすごい奴が成績もいいとは限らなかったがごとく。)

 

元来が「書き込みたい派」だから、この本でそういった性質が再刺激されてしまっただけのことではあるが、ついに普通の小説にまでマーキングする、ということを初めてしまった。出来心で。

 

これが、やっぱり面白いのである。

自分が小説を読むのは、もともとツッコミを入れたいがためだったのだ、ということを再確認してしまう。

ためておいて誰かに話す機会を待っていては消えうせてしまうようなどうでもいいツッコミも、読んでる端からリアルタイムで本にぶつけられる。

本は「くだらんこと言ってないで早く最後まで読め」なんてことは言わずに黙々と受け止めてくれる。

人に迷惑のかからないツイッターみたいなじゃないか。

そんなの楽しいに決まっている。

 

松岡正剛は賢い人なので知識の再編集をしながら読んでいるとのことだが、私は小人の開き直りをもってどのあたりでどれくらいふざける余地があるのかに目を光らせながら読む。

ぼーっとしていると読みにくい文章も、見落としなくふざけていくことで格段に読みやすくなるのだ。

 

ただ形式が読み慣れてない、というだけで最後まで読めないことが多い長編叙事詩も、「むしろ余白がいっぱいあるからなんでもかけて超楽しい!」という不純な動機で読み応えがアップしてしまう。

反逆の天使、めっちゃかっこいいじゃないか。

失楽園 上 (岩波文庫 赤 206-2)

失楽園 上 (岩波文庫 赤 206-2)

  • 作者:ミルトン
  • 発売日: 1981/01/16
  • メディア: 文庫
 

 

あるいは、「登場人物がやたら多いのに全員同じ名前ってどういうことよ!」という部類の本も、ちょっと印入れながら読めば何の苦労もない。

名前ごときでつまずいてこんな面白いもの読まないなんてもったいない。

高い本だから罪悪感にビビったけどやっぱり書き込み楽しい!

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)
 

 

などという経験を着々と重ねるうちに、手の方に印を入れる癖がついてしまい、マーキングしないで読む小説が、ちょっと味気なく感じるようにさえなってきてしまった。

 

電子書籍でももちろんマーカーとメモは可能ではあるが、私が愛用しているkindleペーパーホワイトでは動作が重いうえ、変換の精度もひどく、紙の本ばりに「軽快にツッコミいれつつ読む」というわけにはいかない。

iPadを購入して電子書籍を読むようにすればこのへんの不自由も解消されるのではないか、という気はするのだが、単に本を読むためだけであればiPadを買う値段で紙の本を何冊買えるか、というような計算をしはじめるとまた迷宮いりする。

 

自分の好みにマーキングしてしまった本は人にも貸せないし、読み終わっても売れないし。

無限の所蔵場所があるわけじゃない以上はいい癖とはいいがたいところがあるんだよな、という悩みもつきることはない。

近頃では、さて次の一冊はいかにして読もうか、という悩みから読書をはじめることになってしまって読みはじめるまでが長い(楽しいんだけど)。

 

 

愛用してるのは kindle Paperwhite

読書するには何の不満も快適に使ってきたけど変換機能だけはこの時代にこれか、と仰天するほどひどい。