晴天の霹靂

びっくりしました

『ジブリと宮﨑駿の2399日』~脳みその蓋が開いたとき

 

NHKで放送した宮崎駿の「プロフェッショナル 仕事の流儀」が戦慄のおもしろさでした。

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今どき6年以上ジブリに「書生」として取材者を潜伏させておけるNHKの財力(みなさまの受信料)もさることながら、新作の『君たちはどう生きるか』をここまでわかりやすく、ある意味一面的に解説してしまう結果になりかねない映像をジブリもよく許可したものだな、というのも驚きでした。岡田斗司夫対策だったりして。

 

映像の中では引退撤回して新作絵コンテを書き始めたあたりで盟友高畑勲が亡くなってしまい、その後長期に渡って「パクさん、パクさん」言いながらウロウロする宮さんの恐るべき姿が映し出されており、身の回りで一人二人と誰かを看取りはじめる年齢のすべての人に突き刺さらずにはおかない迫力です。

 

君たちはどう生きるか』を観た時には、「インナースペースに入っていくタイミングがえらく早かないか」とは思ったのですが、描いてる本人のその時の姿を見せられると、まあこういうことだったのか、と納得する次第。普通にNHKの”書生”と話をしてるのに急に窓の外を見て「今、人の気配がした。散歩に行こう」とか言いはじめるので反応に困るんですが、それってそのまんま映画で見たやつなのでした。

 

こういうドキュメンタリーを見たあとで迂闊に自分の話をすると、自分を宮さんにたとえちゃった恥ずかしい人みたいになって石礫が飛んできそうなものですが、そういうつもりではなくて、ただ私も思い出した自分の「脳みその蓋が開く」話をするぞ、強い心で。

 

3年ほど前に先代猫が急に病死し、自分ではそんなに悲しんでるつもりはなかったのですが、しばらくの間は死んだ猫の姿を見たり、声を聞いたりということがよくありました。

ああいうことが起こると本当によく分かるのは「見てる」「聞いてる」というのは、別に目とか耳とかが見たり聞いたりしてるわけではなくて、目と耳が集めた刺激をもとにして脳みそが見たり聞いたりしてるということです。

普段は常識と経験則に則って判別可能な刺激だけ取捨選択して世界を構築してるから安穏として暮らしているわけですが、それが急に「不在の何か」について長時間考える暮らしをはじめると、平時はおそらく無視していた未分化の情報がまっさきにそちらに結びついていくのがよく感じられます。

身も蓋も夢も希望もないことを言ってしまえば、私は前髪が長いので顔の周りに視力のピントの合わないものがゆらゆらすることはわりとあります。ふだんは何か視界に入ってると認識する前に「邪魔だな」と感じるので、意識においてそれは見えてないんですが、思うにあの頃はそういうものに至るまで私にとっては不在の猫でした。

 

今まで世界に現れてこなかった新しい情報を、その時の自分の必要性に応じて名付けることは、創造ではあるとしても嘘でもなんでもなくて、要は世界の再構築であり、「ああ、こうやってあっち側に足を踏み入れていくこともできるのか」と、その時は思ったものです。

自分にだけ見える猫の不在と暮らす生活も正直悪くないんじゃないかな、という気持ちもありつつ、現実的には「私、死んだ猫ちゃんと暮らしててね(悦)」というような人になってしまうと、とてもじゃないが日常生活が不便でやっていけない、というブレーキもかかり、その結果、常識に則ってそれは葬る方向にちょっとずつ情報が修正されていきました。広大な物語を持つ猫だったかもしれないものが、伸びすぎた前髪か何かになってしまうクソ面白くもない世界、ただいま。

 

そんなことを思い出しながら見る、「あっち側に深く行く動機」のある宮さんと、「彼我をウロウロする宮さんを見守る動機」のあるサギ男・鈴木敏夫の居るジブリの際どさたるや。

「パクさんが消しゴム持ってったんじゃないかな。パクさん返して」とか言いながら一人で夜のスタジオをうろつく姿には、寂しさはあるとしても悲壮感はないんですが、昼間人のたくさんいるスタジオで「めんどくせえ。めんどくせえ」言いながら絵コンテを描く姿の方にはたっぷりの悲壮感があって、やっぱり行くより帰ってくる方が大変で、行く距離が遠いほど帰ってくるのも体力がいる道理なんでしょう。

 

それでも、年を取って寂しくなっていくことって「悪くないなあ」というふうには思ってしまうのですよね。花に嵐のたとえもあるぞ、さよならだけが人生だ。

 


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今『君たちはどう生きるか』を今見直すと一回目に見たときより面白いのかもしれないと思いつつも、それでもあのインコ大王のデザインはちょっとないとおもうんだよな。