NHKの「猫も、杓子も」というドキュメンタリー作品を、放送されるとついつい見てしまう。
愛猫家の作家と猫の日常を撮影するだけの、毎回ごく平和なフィルムなのだけど、画面の中に猫と本棚という、私の好きなものふたつが実によく映るという意味で、全編実にたまらない絵面だ。
最近見た「朝井まかてとマイケル」は、たまらず二回見てしまった。
愛猫マイケル(しかしメス)が、なんと24歳なのである。
猫の24歳を、番組中では「人間で言えば100歳をゆうに超える」と表現していたが、わたしが思うに猫の20歳くらいが人間の100歳。24歳ともなれば人間の120歳くらいになるんじゃないかという気がする、あまり聞いたことがなくらいの長寿だ。
番組は当然「24歳のおばあちゃん猫がめでたく25歳になりました」という話にはならない。ちょっとずつ具合の悪いところが増えていき、身体が小さくなり、ある日まかてさんに抱かれたままこの世からいなくなる記録だ。
あまり穏やかな記録なので、去年うちで看取った猫のことを思い出しながら二回見た。
そして、この気持ちを人に言うのは誤解しかされない気がするので本当に気がひけるのだけど、やっぱり気づかざるを得ない。
わたしには、猫を看取りたいという欲望がある、と思う。
いやいや、とは、もちろん思っている。
猫が居なくなるのはすごく寂しいことで、この世にいる猫は今後一匹たりともいなくなってはいけません。という気持ちは当然ある。
我が家には昨年まで二匹の猫がいて、一匹が病気になってほんの数日の闘病生活が終わったときは、それでもまだ私は普通に生活をしていた。でも次にまたこんなことがあったらその時はもう自分が保たないかもしれない、という気持ちも、当然ある。
その気持とは別に、人生の中であんなに時間のかけがえのなさを体験できる瞬間が存在したことが信じられない、という、ほとんど喜びみたいな気持ちが実は両立してあったのだ。
ネコメンタリーはいろんな人間と猫の家庭が出てくるけれども、どの家庭にも共通するのは「猫の方が寿命が短い」という逃れられない運命だ。人間が猫を看取るのであって、決して逆にはならない。
だからじゃないだろうか。猫を失うのを怖れれば怖れるほど、その気持ちの中には「看取りたい」という気持ちが欲望としてちゃんと入ってる気がしてならない。
そして私は妙なことにその気持を確認するのが、結構好きなのだ。
ネコメンタリーで猫の最期にふれる回があるとどうしても繰り返して見てしまう、と猫を飼う友人に言うと「趣味が悪い」と返される。
本当にそのとおりだと思う。私が他人ならそんな人ちょっと怖い。
だけど私は「あーあ。また生後二ヶ月くらいの子猫を育てたいなぁ」と思うのとちょうど同じくらいの、なにかイーッとなってしまうくらい本能的な欲求でもって「猫の最期に立ち会いたい」と思っている。たぶん。
いや、もう、よくわからないのだ。
本当に、およそ理屈には合っていなくて、だからもう、よくわからないのだ。