春が近づいてくると、野鳥の声に耳を澄ます人の姿が目につく。
木立の中で、まるで自分自身も木になってしまったように、ふっと足を止めて息を潜めている人を見ると
「ああ私に似た人がいるな」
と、なんとなく思うものだ。
ぼんやりと無目的に歩き、世界から声をかけられると立ち止まって返事をしようとするような人が、こんな足元の悪い季節にもきっとふらふら外を歩いているのだ。
「散歩を愛し、猫と一緒に暮らす詩人」のエッセイ集を読んだ。
大人になってからあんまり詩の言葉が深く胸に刺さらなくなってるのではないだろうか。
そういう疑惑を、ずっとうっすら持ち続けていて、だからきっかけさえあればいつでも詩を読みたいとも思っていたのだ。
思春期前にとりわけ詩を多く読む生活だったかというと、そもそもまったくそんなことはないのだけど、それでも学生時代は授業で使う資料集などにたくさんの優れた詩が載っていて、それは熱心に読んでいた。
だから今でも秋口にカラマツの林を過ぎるには白秋の悲しみを受信するし、
静かな雪がふりしきる夜には三好達治の太郎と次郎が寝てるのだろうと思う。
そんなふうに、何十年分身体に入るくらいには読んでいたものを、大人になると詩の言葉は身体を素通りするようになるのだろうか。
それとも最近きちんと詩に出会う機会が少ないだけかしら。
そう思ってこれまで名も知らなかった詩人のエッセイ集を買ってみたのだ。
学生の頃、授業の合間合間に読んでいた詩の言葉は、その後生活の中へ移動していたということに、読んでいるうちに次第に気づいてくる。
例えば木立の中で立ち止まって鳥の声に耳を澄ましている見知らぬ人の姿が、
例えば猫を膝にのせて撫でながら失ったものを思い出す毎日の瞬間が、
例えば死によって個性を失い普遍性を得た母とようやくわかり合う悲しみが、
ああ、あれらは全部で詩であったかと。
そうであればきっと、どこかで誰かがもう言葉にしているはずだ。
木立の中で野鳥の声を聞く人に、あるとき突然出会うように、言葉の羅列の中をぼんやり歩けば自分の姿によく似た詩に、これからもまだ出会うんだろう。
心のかぎりを尽くしてきたから、老いたんだね。
セシル・バジェホ「夏」