晴天の霹靂

びっくりしました

『幽霊列車レストラン』 ~猫が最後に乗る列車

 

世界中のあらゆる猫は、最後の瞬間に列車に乗るのだということを、昨年自分の猫を亡くしたときにほぼ確信しまった。


いい年してファンシーなことを言って人を煙に巻こうとしている、というわけでもない。
あの特別なひと区切りの時間。「こちら」から「あちら」へ移動する時間、動き出した以上もう止められない時間、こっそり盗み出したもののようにどこからともなくぽっと現れ出た時間。
これを「列車」という以上に適切に表す概念が、どうにも他にないように思うのだ。

 

銀河鉄道の夜』はまさにそんな作品で、宮沢賢治はたいせつな友人の喪失を列車での旅として表現したけれど、それをその後でますむらひろしが自分の猫を失ったときに猫の旅として表現した。
そのせいか、昨年以降、あれはどうしても猫の話としてしか、もう読めない。

 

いつの間にやら、猫が最後に乗る列車の話ばかり集めようとしている傾向があって、人間を置いて猫がどこかへ行こうとしている話は何割増しかで高く評価してしまう傾向が、わたしにはたぶんある。
それはさておき、とても印象の強い猫の列車の話をみつけた。

子どもむけの、ごくあどけない怪談集のなかの一編、宮川ひろ「幽霊列車」という作品だ。 

怪談レストラン(4)幽霊列車レストラン

怪談レストラン(4)幽霊列車レストラン

  • 発売日: 1996/09/10
  • メディア: 新書
 

 あまり素敵な文章なので筆写してみたが、原稿用紙換算わずか六枚程度。言葉はとても簡潔な作品だ。
作中の人物は老いた飼い猫の体調が悪くなったと同時に、田舎の老母の体調も悪化し、どちらの生命も気がかりなのである。

 

母は、ことし八十一歳になった。すぐにでもいってみたい思いだが、げんたのことも気にかかる。
「四、五日でもきて、つきそってくれないか」
姉からまた電話がきた。
「ねこのげんたも、ぐあいがわるくてね」
電話口で、おもわずいってしまった。
「ねこどころではあるまいに」
姉のおこった声が耳をさした。
 そりゃあそうだけどさ、と受話器をおいたとき、そこにげんたがいた。

 

ふつ。ふつ。とちぎって投げ合うような、とても短い台詞を織り込まれて小さなドラマが進んでいく。
悲しみを共有してるからって、人は真綿でくるんだ言葉をそうっとやりとりすることに専念するわけじゃない。
「ねこどころではあるまいに」
というぱしっと切れる言葉の中に、出発しかけた列車のホームに立つ見送りの人の落ち着かない心が見える。
なんと端的な詩。


読みながら、げんたを見送るホームの人影にまぎれて、いつの間にかわたしも立っていることに気づく。
君はいい旅をしたか、げんたよ。