晴天の霹靂

びっくりしました

「ネコさんネズミさん」しようよ!

我が家のごきげんな猫がしつこい時というのは、だいたいひとつことを言ってきている。

「『ネコさんネズミさん』しようよー」

である。

猫と『ネコさんネズミさん』をするんだから、私が「ネズミさん」になりそうなものだが、どういうわけか大変倒錯的なことに必ずや私が「ネコさん」なのだ。

そもそも、部屋のすみまで追い詰めたら、次は追い詰められた人がネコさん役になるとか、ゲームのルールというのはそうあるべきではあるまいか?

しかし我が家の猫は、何度追い詰めても人間には入っていけない机の下などに逃げ込んで満足げに身を低くしているのみだ。

 

「はい、じゃあ次私ネズミさーん!」

と隣の部屋まで行ってドアの影に隠れても、ただ静寂が広がるだけで誰も追いかけてなど来ない。

仕方ないからそーっとそーっと、覗きにゆけば、まだ机の下から瞳孔の開ききった目をランランと輝かせ、期待を込めてこちらを見ている。

「ねえ、ルールが全然わかんないし、面白くないんだけど?」

これでは長く遊べないと思った飼い主は、かなり謙虚にルールの説明及び改定を求めにいく。

しかし、興奮しきって薄暗がりの中にいる猫というのは、とりわけかわいい表情をして聞く耳をもたないものだ。

仕方ないから私がまた「わーっ!」などと愚にもつかない奇声を発しながら机から猫を追い出し、部屋の中を追い回す羽目になる。

とてもかわいい。しかし、面白くはない。

 

ようやく少し疲れさせた猫をこたつに置き去りにして、遅い初雪がちらつく中を外出すれば、祝日ゆえ親子連れがずいぶんたくさん居る。

見ればだいたいどこのお父さんと子どもも「ネコさんネズミさん」をやっているではないか。

「あはは、私が毎日部屋でやってるやつだ」

と思って見てると、興奮しきった猫にそっくりの動きをする子供がそこらじゅうを駆け回って、身体のなまったお父さんたちを困惑させている。

子どものころは恐ろしいことに、遊んでくれる大人というのは、子供と遊ぶのが楽しいから遊ぶのだと思っていたものだ。

だっておもしろくもないのに遊ぶ理由などないじゃないか。

 

「かわいい」と「おもしろくはない」が両立するということは、猫を飼うようになってから学んだことなのだけど、人生の中でもだいぶ上位にランクする味わいのある学びだったような気がする。

「そういうことなら大いに困らせてくれ」

と思いながら炬燵でホカホカになっているはずの猫の元に今日もいそいそ帰るのだ。