一週間ほど前に我が家の猫を看取ったときに読んでいたのがますむらひろしの『銀河鉄道の夜』だった。
それは、本当に銀河鉄道に乗ったような不思議な夜だった。
もちろん根底に悲しい予感がないとは言わないが、それよりも圧倒的に印象の強い感情は「いずれ終着駅に着くとわかっている列車に同乗できる時間のありがたさ」の方だ。
本当に、どちらを向いてもキラキラ美しい世界というものが人間の頭蓋骨の中にはあらかじめ用意されていたのだ、といつもよりちょっとばかり賢治の世界に踏み込んだ心地がしたものだ。
NHKオンデマンドのアーカイブをみていたら作家と猫を扱うドキュメンタリーシリーズ『ネコメンタリー 猫も、杓子も。』の中の、ますむらひろしの回が目に留まった。
40年間で都合28匹の猫と暮らしたというますむらひろしの猫エピソードの中で、印象深いのは腎臓の患いでなくなったモミちゃんという猫の話だ。
寿命を感じながらも少しでも命永かれと病院に通って点滴を受けさせたのだけど、それは苦しみを長引かせただけではなかったのかという戸惑い。
朝方、最後の声をあげて息を引き取った猫を見てスケッチした一枚のデスマスク。
その絵とともに、亡くなった猫たちが乗る銀河鉄道の話をツイッターの載せたこと。
やっぱりそういう話だったのだな、と確認した気がした。
その鉄道、確かに私も乗ったんですよ。
声をあげて苦し気に見開いた目と口を、「かわいくしてあげなくちゃ」と思いながら閉じる、その時の手の感触まで分かる。
そして眠るように穏やかな顔つきになったのを離れがたく何度も見て「こんなにかわいいのに本当に別れなくちゃいけないものだろうか」といぶかしく思ったあの時、画力があれば、私もきっと絵を描いていたろう。
猫を飼っている友人に、あんまり自分が過ごした夜に似ていたのでつい繰り返して見てしまった、という話をしたら
「よくそんなもの見ていられるね、自分は絶対に見たくない」
と言われた。
そういえばそうだ。
そう言われてみれば、何度も思い出したがる自分の感性の方を最初から疑っていた。
本当はそれほど悲しくなかったのではないか。
あるいは死とか悲しみとか喪失感に対して何か異様にピュアさを求める癖があってそれが現実と合致していないのか。
自分の感情はいつもだいたい嘘っぽく、もしかしたらいつか大切なものの喪失がその嘘っぽさを洗い流すことがあるのかもしれないと思って生きてきた節が元来あるのだ。
そしてそのやましい下心は、大事な猫と乗り合わせた銀河鉄道に乗ってる間も、本当はずっとあった。
なんだかこう、やっぱりザネリなんだよな、私は。
だけど虎猫が優しかったから同情心に欠けるザネリまでも、思い出のためにちょっとだけ銀河鉄道に乗せてくれた。
あれはそういう、ボーナスタイムだったののじゃないかしら。