晴天の霹靂

上品な歩き方とかを習得できないまま人生を折り返すとは

『百年の孤独』 ~103年目の父の戸惑い

この夏『百年の孤独』が文庫化されるという事件があったのは知っていた。

ハードカバーですでに持っているので、買い直すつもりこそないものの、『百年の孤独』が平積みになっている光景はいずれ見学にいきたいものだ、と思ってはいた。しかし、普段の生活の行動圏内にすでに本屋は一軒もなくなっており、いつかいつかと思ったまま数ヶ月が過ぎた。

だからずいぶんびっくりしたのだ、一人暮らしの父の家にそれを見つけたときは。

百年の孤独

そしてさらに驚くことに、重ねて一緒に置いてあるのは、なにやら図書館のラベルが貼ってある洋書ではないか。

「読んでみようと思ってネットで予約したらこれが来たんだ」

開いてみると、図書館所蔵のスペイン語版ペーパーバッグなのだ。

「こんなもの借りても読めないから本屋に行って十年ぶりくらいに本を買ってみたら、今度はレジがセルフで全然わからん」

全方位的に可笑しいやら感心するやら、実に感動的な人なのである。

 

百年の孤独』という小説が話題だと聞いて、オンライン貸出予約したのもセンスあると思うのだけど、いざ取りに行ったらスペイン語版で、それでも断るわけにもいかないから途方にくれつつ持って帰ってきたのだというところも堪らないものがある。

そうこうしてると、たまたま近所のイオンの2階の本屋さんに積んであるのをみつけて買う決心をしたら、今度はセルフレジにピーピー騒がれ本を持ったままオロオロした姿も目に浮かぶようだ。

「とうとう最後は店員が出てきてなんかやってくれた」

「ああいう機械っていっぱい喋るしピーピー言うし、怖いよね」

「焦るほど何もわからなくなるんだよなあ」

たしかにちょっと視力が落ちて画面の文字を読むのが億劫になったりすると、昨今の世の中ではますますどこへ行って何をしようにも攻め立てられているようだろう。そんなに紆余曲折あった末に父の手元に届いた貴重な『百年の孤独』だったのだ。

 

「どこまで読んだの」

「その紐のしおりのところ。すぐ眠くなるから全然進まない。全員同じ名前だしな」

「まあねえ。でも人物相関図ついてるじゃん」

「それ見ながら読んでるけど、やっぱりわからんもんなあ」

「いひひひ。似たような名前の人たちが百年で滅びましたって話だから、本当は誰が誰でもそんなに気にしなくていいんだろうけどね」

買うまでも苦労したけれど、買ったあとも苦労している父である。

「全部読んだのか」

「うん。食卓でいきなり立ち上がって『いいかお前ら、地球はオレンジみたいに丸いんだぞ』っていうシーンとか好きでねえ」

「あれはすごいな。望遠鏡で観察しただけだもんな」

まさかの、父と娘『百年の孤独トークで盛り上がる。この件の何がすごいって、初めてラテン文学を読んでみる気になった75歳父の方ではないか。

スペイン語圏ではソーセージ並にたくさん売れたっていうから、たぶん母国の人たちには難しい本でもなんでもなくて、いかにもご近所にありそうなちょっと不思議な話なんだろうね」

「はあ、そうか。ちょっと行商人が来て変なもの売りつけていったりな」

「そうそう」

 

そんな話をしている父の、そのまた父が継父に連れられて、おそらく着の身着のまま初めて北海道にやってきたのは大正10年のことだ。それから炭鉱で働いたり、農地開拓を目指したりしながら細々暮らす。

そうこうするうちに成長した祖父は今度は戦争に取られ、やっとのことで生きて帰ってくるや8人も子どもを作ってベービーブームに貢献した。戦後世代の父らはもう寝食に欠くことなく、教育も受け、福利厚生付きの仕事も得られた。曽祖父の撒いた種はそのとき最も繁栄したのだ。

そうやってその家族樹の葉先にくっついた団塊ジュニアである私と兄はものの見事に就職氷河期世代にあたり、つまり父には孫がいない。

この枝は、ここで静かに滅びゆこうとしているのであるが、これが曽祖父の決死の移住から数えて103年目なのである。

 

百年の孤独』というのは、「ワンハンドレッド・オブ・ロンリネス」ではなくて「ソリチュード」なのだ。百年間寂しかったよお、という話ではなくて、百年孤立していて、ひっそりと地球が丸いことを発見したり、しかしそれが斬新すぎて受け入れれなかったりしていたということだ。

してみれば、使いにくい画面から本を予約すればスペイン語の本が届いたり、ピーピー騒ぎ立てるセルフレジと一人で対峙したりするのは、我々の103年目の滅びの物語ではないか。

 

「今度は映画行こうか」

「おう、行くか」

滅びゆく枝先の、もしかしたら今が一番美しいのかもしれない物語である。