夢といえば誰にとってもおなじみの、汚れたトイレの夢をこのところ立て続けに見る。
思うにワクチンの副反応で寝込んでいたときに、猫が枕元に強烈置き手紙をおいていったインパクトが直接のトリガーになってるんだろう。
本当にあれには驚いた。
見るのに愉快なものとも言い難いけれど、汚れたトイレは良い夢と信じて疑わぬ節があるので、目覚めては「吉兆、吉兆」とほくそ笑む。
実際、ここのところ物事は良い方に進んでいるようだ。
「良いこと」と言ったところで人間四十年ともなれば「札束風呂でダブルピース」とはならない。
桜が一輪咲いてるのを見つけた、とか。
ローションパックしてたら顔が白くなってきたとか。
新しく買った靴が歩くといい音がするとか。
「それ吉凶あんまり関係ないな」っていう些事の集積であり、しかしそういう些事の中に「なんだ、最近ツイてんの?」とポジティブカーブをかけられるメンタリティの中に個人的な吉凶の最奥があるのじゃろ、という話である。
人生の中には「これは私のために書かれたんだ」などと恥ずかしいことを思う本に出会うことがある。
人間四十年になってもまだまだある。
ワクチン副反応の高熱に乗じてちょうどいい悪夢を見たいと思って読み出した『異形の愛』は、そのような本だった。
マジックリアリズムが心地よくて、読み終わっても適当なところまで戻ってまた読み返すことを続けていたら、妙な夢ばかり見た起き抜けにふと気づいた。
そうかビネウスキ家の最後の一人娘についていた豚のしっぽは『百年の孤独』の最後の一人についていた豚のしっぽであるのだな。
ガルシア・マルケスの『百年の孤独』は、いとこ同士で結婚したカップルが「しっぽを持つ子が生まれるぞ」とからかわれるのに耐えかねて出奔、新天地で立派に一族の村を興すが、結局何代目かに本当にしっぽを持つ子が生まれて運命の書に書かれていたとおり一族全部滅びる話だ。
運命の証たる豚のしっぽのモチーフ。
そういえばもう一冊、最近私がアニメ経由でしばらくハマっていた『平家物語』も、しっぽこそ生えてないものの、百年の孤独に関する物語といえる。
清盛から数えれば三代目、たぶん数えればだいたい百年くらいで、盛者必衰の理にのっとって滅びてしまう。
人望のある者もいたし、輝くような美貌もいたし、子供っぽいいじめの好きな皮肉屋もいたが、まあ滅びちゃったんだからあんまり関係ない。
人はただ多様性の担保として当てずっぽうにばらまかれた種であって、才能ありそうに見えるものも、凡庸に見えるものも、異形に見えるものもいるが、いずれにせよ本人たちの努力とはあんまり関係なく滅びるときは滅びる。
多様性の担保としてばらまかれてしまった側としてできることは、せいぜい自分の異形性をできるだけ異形らしく生きることくらいで、あとはたまたま環境のほうでフィットしてくれればラッキーという程度のくじ引きだ。
ありがたいことに、ちゃんちゃらおかしい。
頑張ってよりフツウのふりをすることが、繁栄のための努力なんかでは全然ないという話は、人間四十年には朗報であることこの上ない。
哀れ な ヒキガエル ども は 沈黙 し て い た。 わたし は 征服 し た の だ。 あいつ ら は わたし を 利用 し、 辱めよ う と し た が、 わたし は 自分 の 力 で 打ち勝っ た。 なぜ なら 真 の フリーク は 作れ ない の だ から。 真 の フリーク には 生まれつか ね ば なら ない の だ。