桜満開のうららかな午後、花屋の前を通りかかったら色とりどりのカーネーションがたくさん並んで賑々しい。
家にあるささやかな花束の彩りに少し、と手にとってみるとずいぶんと小さな束であるのに驚いた。
一本ずつのバラ売りで250円。
そうか、そろそろ母の日で、子どもがお小遣いで買える値段にしてあるのだ。
別に悪くはないが、あまり露骨に大人が子どもの財布を狙いにいく商法を目の当たりにするというのも、大人側としてはなんだかちょっと気まずい気になる。
大切な小銭を握りしめた子供のように端から端まで真剣に睨んだ末、ごくごく赤いやつを一本買った。
花を選ぶときというのはいつでも我を忘れるほど真剣になってしまうものだ。
風に舞い始めた桜吹雪の下を真紅のカーネーションを持って横切る、蜷川実花のようなウソっぽいほどの春である。
先日まで夢中になって読み返していたキャサリン・ダン『異形の愛』があまりにも面白かったために、どうかすると
「もう今後の人生、小説はこの一冊あれば間に合ってしまうのではないか」
という気にすらなったものだ。
もちろん、気の迷いであることは、思うはしから自覚はしていたが、そういうことを思わせるくらいの力をもつフィクションと出会うことはたまにある。
「そうは言っても」と思ったのだ。
そうは言っても、いつまでも同じ本ばかり読んでいるのも時が停滞してしまうから、気分を替えて新しい小説も読もう。
そう思って『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』を読み始めた。
そんなはずあるかいと、読みながら思うのだ。
あまりにも猥雑な面白さなので小説ではなくてゴシップ誌を読んでいるのではないかという気分にもなってくる。
小説がこんなふうに面白いわけがないではないか?
適当に手を出してそんなに次々面白い本にばかりあたるなど、そんな幸運な時期が人生の中にあるものか?
終始映画的な小説の中で、私の脳裏ではデビット・ボウイによく似た姿で華奢なジュリアン・バトラーがピンクの風景の中をよぎる。
ハロー。こっちは世界だが、まさかそっちも世界なのですか?
今年もなんだか、たいへんに良い春のようである。