近頃米原万里さんの本にちょっとハマって次々と読んでいるのだが、きっかけは近所の業務スーパーでハルヴァというトルコ菓子を買ったせいだ。
「おおおっ、これがあのハルヴァかっ」
と思って買い求めたが、米原万里さんが少女期にプラハでたった一口だけ食べさせてもらって以降何十年もかけて探し続けた「幻のハルヴァ」に比べると、断然普通の菓子だった。
少女期の思い出、千年の歴史、広大なユーラシア大陸を伝播する食文化、友が語る未知の国の情緒、そんな文脈を全部取っ払った末に、大量生産でガッチョンガッチョン作られプラスティックでパッケージされて輸入されてきたお菓子に多大な魔力を求めるのは酷と言うものだ。
おいしいハルヴァを食べたければ、業務スーパーに行くよりも『旅行者の朝食』を読むべし。
おもしろいエッセイ集だ。
少女期をプラハのソビエト大使館付属のインターナショナルスクールで暮らすという、日本人としては稀有な経験をした作者の語りが面白くて、さらに立て続けに読んだ。
中でも繰り返して読んでしまったのが『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』だ。
アーニャはルーマニアの共産党幹部の娘で、ほとんど貴族のような生活をしてる少女だった。
周囲をドン引きさせるほど熱心な共産主義者で平等社会のスローガンを振り回すが、自分の生活との間には矛盾を感じてる様子がない。
そしてなぜかぜんぜん必要のない嘘をつくのだ。
そんな困ったちゃんではあったが、気のよい、朗らかな少女なのでみんなに愛されていた。
30年後、万里さんは東欧民主化の中での内戦を経ていまだ立ち直る兆しのないルーマニアにはるばるアーニャを探しにいく。
アーニャは幹部の娘である特権を使ってイギリス人と結婚してイギリスに暮らしていた。
そして、「自分はもうほとんどイギリス人だ。言葉や民族にこだわるなんてばかばかしい」と再会した万里さんに語るのである。
ルーマニアが復興して市民が幸せに暮らせている状況ならばいざ知らず、あなたの故国は今悲惨な状態ではないか。
自分だけが脱出できたからと言って、関係ないと切り捨てることに何の疑問も感じないのか。
万里さんは言い知れぬ苛立ちを感じ、涙の再会を果たした直後の二人の関係も一時悪くなる。
しかし万里さんの筆の見事なところは、ほかの側面からのアーニャも否応もなく想像させられるところだ。
万里さんはルーマニアにいるアーニャの父、母、兄などにも会っている。
家族は政治体制が揺れ動く中で、ほとんど交渉を失い互いに対立しあっているが、「アーニャだけは、あの子にだけは幸せになってもらいたかったんだ」と口をそろえるのだ。
直接は書かれていなくても家族それぞれの言い分が食い違う中で見えてくるものがある。
最初は革命の理想のために人生を投げ出そうとしたが、家族を守る中で権力に取り込まれざるを得なかった幹部である父の姿。
夫が不本意な立場へ押し流されていくのを見ながら、おそらく本音を話せる相手もいない中で娘だけを慰め手として生活した母の姿。
幹部の息子であることに反発して特権を拒否し、民主化後のルーマニアで貧しく生きる兄の姿。
バラバラになってしまった家族全員の、果たせなかった「イデオロギーにしばられずに無邪気で幸せに生きる」という夢を、否応もなく背負わされたのがアーニャではなかったのか。
彼女は鈍感で嘘つきで皆から愛され幸せでなければならない運命を背負って成長したのかもしれない。
万里さんは、どんな人も具体的な言語、文化、母国の歴史を背負って生まれ、望むと望まざるとにかかわらずそこから自由ではいられない、という。
だからこそアーニャの「自分さえよければいい」とも見える発言は受け入れがたく、苦い。
だけど「空想的な謎の嘘」という形でしか発露され得なかったアーニャの「お気楽キャラ」という運命のプレッシャーも、読み返すほどに哀れで悲しみに満ちているように見える。