なかなか気持ちよい秋晴れの中、母の納骨に行ってきた。
行きがけにちょっと和菓子屋に寄ってお供えを選んでいると、レジで小さなおばあちゃんがお会計をしている。
店員さんから
「ポイントカードおつくりしますか?」
と聞かれて
「いいのよ、いつまで生きてるかわからないから」
と澄まして答えている。
店員さん、答えに窮して声を出さずに曖昧なる愛想笑い。
お年寄りが、「死ぬ死ぬギャグ」みたいな軽口で話し相手を一瞬で窮地に追い詰めるのをずっと不思議に思って来たものだが、近頃わかるようになった。
覆い隠されて、存在しないみたいに扱われているけれど、死はもともと日常の中にある身近なもので、人間にとって身近なものはなんだってギャグの対象なのだ。
別に面白くもない「死ぬ死ぬギャグ」で健康で屈強な若者たちを凍り付かせるのは、先達の示す道しるべである。
綺麗に手入れされた気持ちのよい霊園につくと、受付で一万円也を支払って諸々の書類と骨壺を置いてくる。
色気も素っ気もない事務所で特に愛想もなく
「じゃあここでお別れになります、お疲れ様でした」
と言われ、予想以上にあっさりしてるのでちょっと笑ってしまう。
骨壺をどこぞにしまうあたりまでは見送るものかと思った。
青空の下の合同納骨塚にはお花以外のものはお線香も食品も一切置けない規則だ。
手を合わせる間だけの僅かな時間、お菓子を献花台にあげた。
よく見ると献花台の下の目立たないところにこっそり缶ビールが置いてあるのは、誰かがどうしてもお供えしたくてひそかにおいていったものなのだろう。
目くじら立てるには忍び難い思いを、感じてしまう。
貼り紙によると、仏教徒以外の人も納骨されているのに特定の宗教色に傾くのはよろしくないという理由で近年線香立が廃止されたばかりらしいが、そっと般若心経を上げさせてもらった。
気持ちのよい天気の中、落ちているどんぐりなんかをなんとなく数えながらぶらぶらと霊園を遠回りして帰る。
一緒にいた叔父が、合同納骨所の仕組みがほとんど呑み込めていないらしく根掘り葉掘り父に聞いている。
「どうやって探したんだ」
「いや、散歩しててここいいな、って」
「いくらくらいするんだ」
「だいたい一万円」
「年間か」
「いや、生涯」
「……生涯って、変じゃない?」
たまりかねて私が突っ込むと二人のお爺さんが笑う。
「いや、だから遺族の生涯」と父は訂正したが、それも変だ。