雪が降り、猫が何時間も炬燵にこもる季節が来た。
炬燵は八時間でいったん切れるようにタイマー設定されている。
猫にしてみれば不本意なことだとは思うが
「タイマー切れたんで炬燵入れてください」
と八時間おきに頼みに出てくるような仕掛けをしておかないと、このまま春まで会えなくなる可能性もあり、不便こそ我々の大切な絆である。
そんな猫が、タイマーとは関係ないタイミングで突然炬燵から静かな部屋の中にババババッと走り出てきた。
寝ぼけてるのかな、と思いながら
「おはよう、まろちゃん」
と声をかける。
こちらを振り向いた黒猫の様子が変である。
口の中に何か引っかかってるように、しきりに気にしてベロベロと舌を出したり首を振ったりしている。
見せてごらん、と慌てて顔を覗き込む。
外から見た感じは何もないが、捕まえて口を開けさせようとすると嫌がって遠くへ行ってしまう。
どこが痛いんだろう、と思ってじっと見ていると私の緊張が伝わって、じりじりと後退した挙げ句ついに天袋の奥まで逃げてしまう。
生き物をむやみに凝視してはいけないのはジョーダン・ピールが『NOPE』で言っていた通りだが、しかし一刻を争うような何かが起こってるかもしれないこの状況で他にどうしろというのか。
自分で口の中を調べられない以上、獣医にまかせるしかない。
動物病院を調べると1時間後に夜の診察開始の時間だった。
あと1時間、とりあえず自分がリラックスして、猫の警戒心を解くのが先決だ。
キャリーバッグや診察券の仕舞い場所、この後の予定の調整などを考えながら何事もなかったかのようにパソコンの画面を見ていると、しばしば天袋の奥からチリンチリンと鈴の音が聞こえる。
猫が首を振っているのだ。
知らない、知らない。気にしてないから出ておいで。
リラックスしている真似に勤しむ私と、天袋で時々鈴を鳴らす猫の間で空々しい1時間が経過する。
いざ、キャリーバッグを構えて意を決して短期決戦の勝負。
もちろん、猫は捕まらない。
少々口に違和感があっても、猫のダッシュは早いのだ。
滝を流れ落ちる水のように、真夏の蜃気楼のように、猫はどこまででも華麗に逃げて不器用な人間の手には決して捕まらない。
最終的に天袋の要塞を放棄、炬燵の奥の奥へまで入り込んだ。
布団をめくって様子を伺う私に疑り深い眼差しを向けてきた猫に、ついに一時休戦を申し入れるしかなかった。
しかし炬燵の奥の暗がりの中で、ほとんど口を気にしなくなっているようにも見える。
「わかった、とりあえずちょっと話し合おう。まあ、ちゅーる食べなさい」
差し出した非常用のちゅーるは、喜んで食べるのだ。
口の中が痛いわけではないのか。
とりあえず、口を気にする仕草をしなくなったように見えることと、餌はちゃんと食べられるらしいこと、これ以上ストレスを与えたくないこと、病院の診察時間を考え合わせると、もうその日は諦めるしかなかった。
夜、眠ろうとするといつものように猫は私の枕を奪いにやってきて頭の横でゴロゴロ言っている。
機嫌が良いところを見ると、痛いところも不快なところもないらしい。
本当は、現状なんともないとはいえ一応病院で診てもらいたいのだけど、
「あんたはぐったりする病気の時以外は病院につれていくのは無理だねえ」
嘆息しながら耳と耳の間の柔らかい毛を撫でる。
子猫の頃おもちゃを飲みこんで腸閉塞で入院したり、一緒に育った先住の虎猫が入院したとおもったらあっという間に他界してしまったり。
この子にはこの子でとにかくなんとしても病院というところだけには行きたくないと固く決意するほどのトラウマがあるのだ。
「……本当に、頼むよ」
必ずや自分より先に逝く運命の命のことを考えながらしんみりしていく飼い主と、もはやすべてを忘れてゴロゴロ言ってる猫と、二つ頭を枕に並べて初雪の夜が更けていった。
生き物を見つめるときはマナーを守ろう。
人間でも、ペットでも、訳の分からないものに対しても。