窓をカラカラと開け放しておく陽気になった。
猫のためにこたつをつけておく陽気と、その電源を切って窓を開け放つまでの間の期間は、一日しかないのだ。
こんなにも季節はめまぐるしかったか。
外から流れこんでくる異質な匂いのする空気に向かって、猫は身を乗り出して鼻先でフンフンと様子をうかかっている。
今までベランダに出してやったことがないのだ。
この家に越してきたときに、外界と接続する遊び場としてベランダを猫に開放すべきかどうかかなり悩んだ。
猫がベランダから落下する事故も少なくないと聞く。
なにしろ長押のうえに据え付けた本棚から、下で寝ている飼い主の腹にむかってまっさかさまに落下した前科のある猫である。
猫以上に、飼い主は不安だ。
まずは家に慣れてから考えようというので「とりあえず保留」というということにした。
室温の調整で窓を開けるときは、バーベキュー網で作った仕切りで封鎖した。
そこはいたって素直なもので、形だけでも一応の結界をしておけば、「ここは自分のテリトリーではないのですね」と踏んで、無理に出ようとまではしない。
今日、そのバーベキュー網バリケード封鎖をし忘れたのは、そもそも窓を開け放つのが久しぶりだったからである。
おっかなびっくり身体を引き伸ばして鼻先だけベランダに出している猫を見て
「ああ、封鎖しておかないと勝手に出てしまうな」
と、やっとバーベキュー網のことを思いだした。
しかし、どうしようか。
昨年までは、この猫は二匹で育ってきたのである。
人間が居て、猫がいて。
そういう環境の中で暮らしていたのが、思いがけない急病で遊び仲間の猫がいなくなってしまってから、一匹残された彼女の生活から極端に刺激の量が減ってしまった。
本当はもっといろんなことをおもしろがりたいに違いない。
「空気が動いてて楽しいねえ」
サッシに片足かけたまま腰の引けてる好奇心に向かって後ろから声を掛ける。
ちょっと振り向いて私がいるのを確かめてから、また恐る恐る、目の前に突然開いた世界の観察にもどった。
「地球が自転してるから、こうやっていつでも外の空気はちょっと揺れてるんだぞ」
こちらも人間としての見栄があるから、無理してちょっと賢しげなことをいいかけ、
「……あれ、そうだっけ?」
と不安が頭をもたげる。
そうだったような気もするし、そうじゃなかったような気もする。
たぶん中学校の理科の教科書あたりに出てるんだろう。
お前もちゃんと勉強しとけ。
この子が外に出たいと思うなら、今年は、もう出してやろう。
人間の都合で家に閉じ込めて飼わざるを得ない以上、猫の暮らしを面白くしてやる責任は飼い主にあるのだ。
そう思って臆病と好奇心がせめぎ合ってる黒い背中をしばらく見守っていると、ついに臆病が勝って、猫はふいとどこかへ行った。
今日一日分の、十分な刺激は受けたのだろう。
危険を顧みずに好奇心だけでどこへでも行けるのは子どもの所業。
我が家の猫も、いつの間にやらだいぶ大人になっているのだ。
いずれ、猫がベランダに出ていくのを気に入ったら、落下防止の柵やら日向ぼっこ椅子やら作ってやらねばならないかもしれない。
それとも、本腰入れて臆病者で、目には見えない結界からあえて外へ出ていくことを望まないような性格なのだとしても、それはそれで結構いいと思う。私に似てる。
新しい世界に出会ってびっくりしてる生き物を見る経験ってのは、目が覚めるようにありがたいものだ。
今年は黒い猫と一緒になにか始めての夏が迎えられるのかもしれない。