真夜中、ずっとパソコンをつけていた部屋は熱がこもって暑いので、虫が入らないように室内の電気は消し、窓を開け放って寝る前の換気をする。
ベランダのすぐ下は小さな小さな公園があり、誰もいない滑り台の脇にオレンジ色の街灯がひとつ静かについてほの明るい。
左手に見えるまあまあ金持ちの巣窟らしい高層マンションはだいたいの部屋が寝静まって、かたや右手に見える黒く沈んだ山並みはしっとりと夜霧に霞んでいる。
ひんやりとしていい夜だ。
「ちょっとオートミールでも作ってこようか」
いい調子になってきたので耐熱ボウルにオートミールと塩ひとつまみと水をいれてレンジにかけた。
寝る直前にあんまりものを食べるもんじゃないと、現代人にわずか残された満足に水をさすために何者かによって流布された罪悪感が世間にはびこっているが、その件に関しては
「バーカ、これが一番おいしいんだよ」
(『大豆田とわ子と三人の元夫』コロッケのシーンより)
と、尊厳をもって闘うべきである。
深夜、寝静まった宇宙の片隅で、ちょっと小腹も空き、なにか暖かいものを食べると心地よく眠れそうなコンディションで、誘うような夜霧も出ており、夜食向きの好物もキッチンにあるときに、我慢して生きてどうすんだ。
チン、と景気よく返事をしたボウルを抱え、暗い部屋を横切って窓辺に戻る。
同じくちょっと暑いと思っていたらしい猫がいつの間にかベランダに出て、しきりに下を覗き込んでいる。
そうか、こんな時間にベランダに出るのは初めてだね。
夜ってなかなかいいものだろう?
猫の様子を見ながら行儀悪く窓枠に腰掛ける。
『ティファニーで朝食を』の、「ムーンリバー」を歌うシーンである。
歌声を聞きつけた作家志望のジョージ・ペパードが窓越しに見下ろすのと目があって、歌い終わった洗い髪のヘップバーンが言うのだ
「What’re you doing?」
「Writing」
「Good」
ギターがオートミールであることと、ジョージ・ペパードが黒猫であることと、ヘップバーンが私であることをのぞけば、ほぼ『ティファニーで朝食を』のワンシーンそのままあると言っても過言ではない。
若くて美しい白人男女だけが恋をした、世界が実に単純だった時代。
深夜のオートミールを歌い終わった私は
「さて、寝ようかマロちゃん」
と機嫌よく声を掛ける。
猫はどんな面白いものが見えているものやら、細長く身を乗り出して眼下の公園から目を離そうとしない。
仕方ないので空になったボウルをおき、キッチン側の掃き出し窓からサンダルを履いて猫の回収に向かう。
人間の都合で身体に触られるのが嫌いな猫は、するりと逃げて、今まで私が座っていた腰高の窓かぴょんと室内に飛び込んでいった。
私がもたもたしてる間にまた脱走しないように、すぐにベランダ側から窓をしめる。
これでよし。
気がつけば、換気の終わった快適な室内に猫。
そしてなぜだか私は両方の窓をきっちりしめて、完全に夜中にベランダに締め出された飼い主の図。
なんとなく、地球最後の一人になった気分でガラス越しの猫を見つめる。
はるかに広がるムーンリバー、いつかあなたを渡ってみせる(敗北感)