今クールはTBSドラマ『MIU404』を観ておりました。
『MIU404』9/4(金) 最終回直前!! スペシャルムービー【TBS】
「観ておりました」も何も、佳境を迎えたあたりでやっと「面白い」という情報をキャッチして第七話から見始め、要するにラスト5話分しか見ていないので、ドラマの大筋はいまいちよく呑み込んでいないのです。
主役の二人がどうして刑事なのにメロンパン販売カーに乗ってるのかってあたりからしてほぼ理解していない。申し訳ない。
それはさておき、ラスト5話だけでも大変魅力的なドラマでありました。
何が興味深いといって、「何考えてるのかまったくわからない悪人」であるところの菅田将暉の造形が完全にバットマンシリーズのジョーカーだってことでした。
2008年に『ダークナイト』が世界的大ヒットをしたときに、当時日本での興行収入だけがあまり振るわなかったことについて、映画評論家の町山 智浩さんがミルトンの『失楽園』を踏まえた文脈でとても面白い解説をしていました。
(非公式なので載せないけど動画サイトで「町山 智浩 ダークナイト」で今でもヒットします)
要するに、絶対神をベースにして倫理を成立させてきた文化圏では、近代以降「神が存在するなら自分たちの自由意志はどうなるんだ」という問題と直面せざるを得なかったということです。
この文脈において『失楽園』など連綿と文芸作品の伝統があるキリスト教圏に比べると、「自由のために反逆し続ける純粋悪」という存在が日本人にはなんのことやら十分に伝わらかったのだろう、という面白い分析でした。
そしてさらに、2019年の大ヒット作かつ最凶闇映画『ジョーカー』があります。
こちらは一転、日本でもヒットしたのは、反逆する対象がもはや宗教的概念の「神=善」ではなく、身も蓋もなく現世的な「格差」だったせいのように思います。
絶対的な善悪を問う前に、なりゆきで形成されていった秩序によって社会は決定的に分断されており、もはやモラルへの反逆を語るのに神の存在は必要ない。
他人事として見られないだけ『ダークナイト』よりだいぶ胃の痛い作品でした。
そしてコロナショック後生まれのジョーカー、菅田将暉。
この人が反抗してるのは「神」とか「格差社会」とかの特定の強固な物語ではなく、どうやらそもそも「物語の不確かさ」であったように見えたところがすごく面白かったのです。
2020東京オリンピックに多数のボランティアが応募しているというニュースを観てなんともいえない顔で見つめるシーンがあるのです。
どうかすると全体の流れに関係なさそうに見えるシーンでもありますが、非常に印象的でした。
オリンピックに関しては私の実感でも、最初「復興五輪」と標榜していたものが、いつの間にか「人類がウィルスに打ち勝った証」に変わっており、それに関して特に誰も説明を必要としなかった流れはなかなかに虚無的な感じを受けました。
要するに誰もが「次々生産される物語は最初から自分のためのものじゃないし、誰かが都合よく利用するために作っては消費していくんだろう」ということを緩やかに了承していて、どうせ世の中なんてそんなものなんだから目前の実害がなければそれに乗っかっていくのもやぶさかではないという前提がどうやら我々にはある、と再認識したのです。
何が起こっても生き生きとした怒りを感じることがない我が身に比べると「ただお前たちが自分に都合よく作っている物語の裏をかければそれでいい」という2020年国産ジョーカーは、共感できる悪でした。
でも、ジョーカーにしては船の中のシーンで刑事に優しすぎなのですよね。
二人一緒に転がしておいて、携帯もそのままにしておくなんておかしい、船の中のジョーカーはやはり極限まで残酷な選択を迫らなければっ。
ああやって主役二人に勝ち目を残しておくのが2020ジョーカーの希望だった、ということなら理解できるけど、まあやっぱり優しすぎるな。
ラストのホアキン・フェニックス版「ジョーカー」をオマージュしたシーンもとても印象的でした。
彼は挫折した自分の計画について何を思っていたのか。