マグカップを新しいものに替えたい欲望が定期的に湧き上がるのである。
それは結局、仕事のときにも仕事の合間にも、いつも最も手近なところにあって、気分を変えるという意味では、見た目、手触り、重さ、唇に触れる感触、鼻先に触れる香りまで、ほんの小さな買い物でいっぺんに全部を変えることができるという意味で劇的であるせいなのかもしれない。
そうは言っても、人間が一人しかいないのにカップの類ばかり増やしても、と大抵は我慢するのだけど、去年あたりから部屋に花を活けるという生活習慣ができたという新しい事情がある。
花器なんぞというものはないから、なにがしか家にあるグラスやらカップやらに活けるのだ。切り戻すたびにだんだん短くなっていく花は、安定が悪くなるにつれて順繰りに背の低い器に活けられていく。
「うちでは茶器であるだけでなく、花器でもあるのだから」
そういうことならば今年はひとつくらい増やしてもよいような気がして、そぞろなる欲望を持って食器屋さんを見に行く。
あれと、これと、これ、どれだろう。見た目が好きなのはこれだけど、これは少し大きすぎて飲んでるうちにコーヒーがあっという間に冷めてしまうだろう。
両手でしっかり持ったときにちょうどいい感じの温かさと重さを運んでくるのはこちらだけど、思い描いていたより持ち手が少し小さいようだ。
などなど。そんなにたくさんある訳でもないカップをあれやらこれやらまたこっちやらとかわりばんこに持ったり覗き込んだり、ためつすがめつしては、いつまでも店先に立っている。
向田邦子がどこかエッセイで、一人暮らしを始めたころはツルンとしてシンプルな磁器の食器で揃えて嬉しかったのだけれど、好きな食器をぽつぽつ買い集めているうちにいつの間にか重たくて無骨な陶器ばかりになったのを、よく考えてみれば子供の頃実家で使っていたものにどれもこれも似ている、という話を書いていた。
そんなもんかなあ、と思っていたけれど、今まで丈夫で扱いやすい磁器が好きだった私も今年はやけに陶器のカップにしか興味がわかない。
寒いのだ。
ツルンと肌の薄い磁器を触っていると手先が冷えるような気が、むやみにする。
こちとら向田家とは違って陶器の重たい器があるような箔のある家庭では育ってないけれども、それでも年とともにそっち側に行き着くようになってるものなのか。
そんなことを考えていたらふと思った。
向田さんだって、あながち育った家の刷り込みのせいばかりではなくって、もしかしたら手先が冷えるお年頃だったのかもしれないじゃないの、と。
等しく「中年女」という仲間に立派に入れてもらったようで、勝手に決めつけて勝手に喜んだりしては、ついに粉引のカップを買う。
それでも選んだ買った食器というのはだいたい先に割れていき、なんだかわからないけど引っ越しのどさくさに100円ショップで間に合わせたものばかりがびくともせずに残っていくのが生活の法則ではある。百均の食器って、なぜ絶対に割れないのか。
おそらく中学生くらいの頃、やたら熱心に読んでいた写真レシピ集。
重くて扱いにくそうな器が実際たくさん出てくるのを、なんということもなく不思議な気持ちで眺めたものです。