ここ数日「般若心経」を覚えている。
近しい人が直葬で亡くなっていたのを知り、花と線香だけ持って急ぎ訪ねてみれば、そこは実に何もなく線香を立てる場所さえもなかったのだ。
近くの雑貨屋さんでインテリア用の小さなお香立てを求め、食器棚から探しだしたグラスに花を活けて改めてまわりをみると、最後を万事簡素に済ませようと縮小しながら暮らしていた生活が見受けられ、小さなお堂のようなありがたさすら感じる空間だった。
静かな決断に心を打たれる一方、可能ならば何かささやかな回向をさせてもらっても邪魔にはならないのではないかという思いも浮かぶ。
一番短い、一番有名な、一番身近なお経を覚えてできるだけ早く読経させてもらいにこよう、そう思ってひとまず辞した。
再び雑貨屋さんで、先ほど目についていた般若心経の経本を買い、帰ってすぐにAmazonミュージックで手本になる読経を探して声に出して読んでみる。
声に出すと心地よいので、実に一時間でも二時間でも繰り返して読み続けて飽きないには我ながら驚いた。
夏場なので窓をあけており、延々と般若心経を唱え続ける部屋があることに隣近所がびっくりしやしまいかと今更心配になってきたくらい、いつまででも読んでいられる、どころかやめられないのである。
色んな読経を聞いてた中でも、とりわけ仰天したのは歌う僧侶グループ、キッサコによる般若心経の心地よさだ。
般若心経 cho ver. (live) / 薬師寺寛邦 キッサコ @2016.7.16 松山市民会館大ホール
なるほどお経というのは、意味に先んじてこういう「音」の装置なのであったか。
それにしても経を唱える僧侶からこんなに色気が出ていて大丈夫なものかとだいぶ心配になっているくらい、見たことない方向性からのセクシーが過ぎる。
実際、客席が写ると中高年の女性が多いことに納得をおぼえつつ「そっち行ったらアブナイよっ!」とドキドキせずにはいない。
これほどのものが無理なのは明らかだけど、般若心経は今まで思っていたよりだいぶ大きな器であることは確からしい。
「うまくはないが手向けの句、
月浮かぶ水に手向けの隅田川
生者必滅の会者定離 頓証菩提 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏……」
とは、落語「野ざらし」の中で行われる、長屋の浪人による無縁仏へのとっさの回向である。
うまくはないが、手向け。
死はますます身近なものになっていくだろう。
自分の年齢にとってもそうだし、社会の成り立ちもそうだ。
うまくなるのを待っていると、後悔することがある。
うまくはないが、見当違いかもしれないが、やらせてもらえることならばやれるときにやっておかなければ、するりするりと時は経つのだ。