晴天の霹靂

びっくりしました

『生きるとか死ぬとか父親とか』 ~あんたあたしのなんなのさ

切り花の高かったお盆の時期が過ぎてまた価格が戻ったと思ったら、並べられた花の色がめっきり秋ぽくなっている。

ワレモコウという、派手さのまったくない、ぽつんぽつんと離れて揺れるぼんぼりのような花がかわいくて、買って帰った。

秋には地味な色がよく似合う。

 

 

近頃読み返した軽妙なエッセイ集である。

母に先立たれて20年、二人きりで残された父と娘が関係を再構築しようとするエッセイ、ミニマム家族の物語だ。

未婚で中年の娘、後期高齢者の父。

家族の季節は秋である。

生きるとか死ぬとか父親とか

生きるとか死ぬとか父親とか

 

 

娘にとって父親っておもしろいなと思うのは、思春期くらいから先、それがどういう人なのかまるきり分からなくなる点だ。

「母の夫」であることは重々知っているのだが、その男性が自分にとって何なのか、というのはいつからか直感的にあまりピンとこなくなる。

さらに面白いのは、たぶん父親のほうでも、ある年齢から先は「娘」ってのはどういう人なのかあまりわかってない形跡が感じられる点だ。

「なんか小さい頃から家にいた女の人」と思われてるのは知っているが、共通の話題も趣味もないし、生理的に理解しあえる共通項もない。

 

父と娘は核家族的関係において一番訳の分からない、したがって持ち重りがし、努力しなければ容易に縁が切れてしまうぶん、図らずも高度なオリジナリティにあふれてしまう関係ではないか。

 

どこまでなら生活に介入しても邪魔じゃないのか、ギャップばかりの価値観に踏み込まれることをどこまで警戒していいのか、どれくらい肉親を演出するのが適切なのか、どの程度年寄り扱いしても失礼じゃないのか、皆目見当もつかない癖にひとつもヒントがない。

 

世界に「母」という緩衝材を失った父と娘は山ほどいるのだろうけれど、きっとそれぞれいびつで素っ頓狂な「普通の親子ごっこ」を手探りで続けたり、修復不可能な失敗をしたり、しているのだろう。

 

家族関係というものは絶対に美談じゃないが、それでもいくばくか「愛」と呼んでいいものがあるのだとすれば「いびつで素っ頓狂」をあえてやっていこうとする戸惑いの中にだけ、それは僅かながらありうるのかもしれない。

 

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吾亦紅(われもこう)とまどっていてぽつぽつり