近所に、散歩の途中で見つけた奇跡の珈琲豆屋さんがある。
我が家の周辺はいい珈琲豆屋さんがやたらにたくさんあって、どの店に行くのも楽しいのだけど、中でも一軒だけ、値段がちょっとおかしいところがある。
クオリティに比べて、値段が安すぎるのだ。
個人で豆を仕入れて毎日手作業で焙煎してるとなれば、
「いくらまとめ買い価格とはいえ、この値段になる道理はなかろう?」
と、素人ながらに心配になるくらい安い。
安くて美味しくて家から近いとなれば、自然その店に最も頻繁に足が向かう……ことになるはずだ、理屈では。
ところが珈琲豆の缶の底が見えてきて、「ああそろそろ買いにいかないと」となった後もついグズグズとした挙げ句、いったん別の店に買いに行ったりしてしまう。
安くて美味しいならばそれで最高なはずなのに。
それ以外にいったい何の不足があるかと問えば、これが痛恨の、珈琲豆の名前がやたらに可愛いのである。
どこの珈琲豆屋さんに行ってもだいたいは
「マイルドブレンドとフレンチブレンドを100グラムずつください」
くらいのことを言えば、たいていほしいものが買えるものだ。
しかし、その店だけはなぜか
「『ほっこりふんわり』と『そよそよ風さん』を100グラムずつください」
くらいのことを言わなければ欲しい物にたどり着けない。
時勢柄マスクをしているから、カウンターの前で相手の目を見ながらきっぱりはっきり大きな声で伝えなければならぬ。
やってみるとイメージトレーニングしていたときの数倍恥ずかしい。
値札に「ほっこりふんわり(マイルドブレンド)」くらいのことを書いておいてくれれば、根性のないやつは頭を垂れてカッコ内を読めばいいんだな、と思うところだが、この店にはそのような甘やかしはない。
かといって、「これ」と指をさせば伝わるような大きな商品陳列棚があるわけでもない。
豆の名を決然と呼べない軟弱者は望みを捨てて踵を返すしかないのだ。
珈琲の香りの中で試される羞恥心と愛の分水嶺。今こそ渡れルビコン川を。
ところが事ここに至って私は、大変な発見をした。
その店は、インターネット販売があるのだ。
少し多めに買えば、道内なら店頭と同じ価格で送ってもらえるではないか。
「これだっ!」
と確信した私は「ほっこりふんわり」と「そよそよ風さん」を半月分注文した、無言で。
そして「ほっこりふんわり」と「そよそよ風さん」は、翌日には手元に届いた、無言で。
なんという革命。
これで私の珈琲生活は当分安泰ではないか。
もう年甲斐もなく途中で赤面したり、大事なところでトチることに怯えたりせずに美味しい珈琲が毎日飲める。
そのようにして手に入れた豆を挽きながら私は思った。
あの店がなぜよそより明らかに安いのか。
もしかして、オーナーが「誰かがちょっと恥ずかしいことを言って照れている様子を見る」ことが三度の飯より好きな人、なのではあるまいか。
だから「ちょっと照れくさいことを言ったお駄賃」として本来の商品価格から何割か割引して設定しているのだとしたら。
それを郵送してもらうことによって私はオーナーが自腹切ってまで楽しみにしている道楽を奪い取ってしまったことになるのではないか。
ああ、どうしよう、もしそういうことだとしたらどうしよう。
わたしは子供のころからとりわけシャイな質だと言われているから、ひょっとしたら新参の客の中では比較的オーナー好みの良い羞恥心を出していた可能性はある。
いいんだろうか、このまま無言で安くてかわいい名前の珈琲を飲み続ける生活を続けても。
ひたすらに安くて美味しい珈琲を求めて、結構色々経巡ってきたのであるが、安ければ安いで予想もしなかった心配事が起こるものなのだなあ、というのは、今回はじめて知った話。