「名産鵡川のシシャモが今年は不漁」というニュースを目にして心配していたがところだが、鮮魚売り場では地元産のものに「新物」という目に眩しい金のシールがついてしっかり並んでいた。
試練の中、よくぞここまでたどり着いた我が精鋭たちよ。
旬になってシシャモが「女子だけ」と「男子だけ」にグループ分けされてたくさん並ぶ様子を見ると、いつも少しドキドキする。
そろそろ見回りが来るから、というのでおとなしくしているのだろうが、私の姿が見えなくなったら途端にみんな一気に飛び起きてにぎやかすに違いない、という気がして、通り過ぎてから急に振り向いてみたいような気がする。
傍若無人な若さよ、驚け。
ひとりだけ串から飛び出しているのやら、ひとりだけ明らかに大きすぎるのやら、集団生活の中に押し込まれた多様性に想いをはせつつ、注意深く各部屋に睨みを利かせる。
ここは思い切ってひとつ、一番賑やかそうな様子の「女子の部屋」を買い物かごに入れた。
シシャモを選ぶ、お会計を通る、マイバックに詰める、自転車のカゴに入れて走る。
カラカラ音がするような乾いた空気の中、身を縮めて信号待ちをしているとカゴの中から枕を並べた女子たちの声が小さく聞こえてくる。
「ねえねえ、好きな子いる?」
「やだー、うちのクラスの男子変な人しかいないじゃん」
俳人の金子兜太が『他流試合 俳句入門真剣勝負』という本の中で「季節感は一定の経験が必要になるので大人のもの、子どもは裸の生活の中で直接ものをつかむから基本的に無季なんだ」というような話をしている。
なるほどその通りだなあ、と季節が動くたびに思うのだ。
大人にとって季節がありがたいのは、イチイチのことが何もかもかけがえがなさすぎるというのでは、ちょっと心臓がもたないような気がしてくるせいもある。
無敵のシシャモ女子会を載せた自転車が青信号を、我が家の方に渡っていく。
寒風を抜けて一路、あたたかな秋の夕餉へ。