ガラスペンを買った。
「持っているだけで手書きしたくなる文房具」が欲しかったのだ。
「ブログ」というシステムができた頃のことを覚えている。
あれは、2003年とか、それくらいだったのではないだろうか。
「ホームページとは違うんだ。え、日記みたいなもの?日記を人を見せる前提で書くの。なにそれ悪趣味」
と思ったのは別に私が保守的な人間だったからではなくて、あの時点ではわりと一般的な感覚だったはずだ。
日記なんて人に見せるものじゃないだろ。なに悲しうて。
昔むかしのその昔、日記って基本的には見せるために書くものではなかったのだ。
今は、人に見せるためでない個人的な文章こそ、どれくらい書かれているのだろうか。
それでも言語化したものをどこかに公開するという行いはしばらくは日記に近い役割を果たし得ていたような気がする。
書く人もさほどいなかったが、読む人もあまり居なかったから、それほど危険な行為ではなかった。
個人的な日記よりは客観性を意識するけど、交換日記、くらいの意識で公開しても大丈夫。それくらいのものだった。
日々膨大に流れては消えていくチラシの裏だ。
「このひとつひとつが全部人類の自意識だと考えるとちょっと気持ち悪くなるよなあ」
とは思ったけれど、人は言語によってものを考える生き物だし、多かれ少なかれ言語化というのは行われた瞬間に受け手を想定することでもある。
時とともに加速度的に言葉を公開することの手順はどんどん容易になり、拡散力はどんどん大きくなり、いつの間にかそれはどこでどんな火の粉を浴びるかわからない危険な行為になった。
その一方で「公開前提でない文章」というものを書く機会は減った。
つまりは、より安全なことばかり言語化して考えるようになってきている。
もっと言えば、よりつまらないことばかり、考えている。
一番考えたいことは、「まだ安全を確認されてない言葉について」である。
それをしみじみ思ったのは、久しぶりに行った実家でだった。
一人暮らしの老父が長期留守にしているので、鍵を預かって植木の水やりと郵便物の整理に行った。
花を生けて線香に火をつけ、薄暗い部屋を見回したら、うっすら見覚えはあるけれどここ何十年も使っていなさそうなコーヒーカップやら湯のみ茶碗やらが目につく。
ああやはり、ここにはたくさんの言葉が眠っている。
なにかわからないけれど、人気のないその部屋は間違いなく、鑑識の済んでいないなにかの現場だったのだ。
帰り道に文房具屋さんに寄って、気に入った色のインクと、ガラスのペンを買った。
言葉を、起こそう。
安全を確保された紙の上で、眠っている自分の言葉を起こそう。
骨董屋で、思いがけず日記帳を買ったウインストン・スミスのように、私もやむにやまれずインクの瓶と日の光にキラキラ光るペンを買った。
金木犀色のインクを心あてに繋げていけば、きっとあの薄暗い部屋の中で眠っていた言葉と、どこかのトンネルの真ん中へんで会うような気がする。
閉ざされた紙の上に、ついなにか書きたくなる道具。
私に必要なのは今それだ。一九八四年のウインストン・スミスのように。
今週のお題「読みたい本」