4月13日までハヤカワ春の電子書籍祭で半額なので、せっせとハヤカワを読んでいる。
オーウエルの『1984年』は、以前買ってあったものなので別に今読み直す必要はないのだけど、目につくとなんとなくぱらぱらっと読み返してしまう古典でもある。
公文書が捨てられ続け、改ざんされ続け、それがバレバレでも案外誰も怒らないことを目の当たりにする時代の中で読むと、またリアリティも格別なのだ。
もちろん「誰も怒らない」中には当然自分も入っており、「1984年」を片手に持っていても怒り方がよくわからないあたり、我ながらよくしつけられていることに感心する。
うちの猫だって夜中人間が寝てる隙にこっそりテーブルに乗るくらいの反権力思想はもってる。
このディストピア小説の中の中心概念のひとつが「二重思考」というものだ。
1.権力者が自分の都合のよいように事実を作る。
2・その事実と矛盾する過去の事実はなかったことにする。
3・人々が過去の事実を忘れる。
という三つの段階をたどって全体主義的な社会は運営される。
読んでいると、矛盾を受け入れることは人間にとって全然苦痛なことではないのがよくわかる。
矛盾しているということを意識しないだけで解決できる。
意識されないことはすぐ忘れるのだ。
ところで話がずれるが、最近「矛盾」ということに関してちょっと気になっていることがある。
「自粛を要請」という言葉遣いって、矛盾しちゃいないか。
要請されたものはもう「要請」であって、自粛ではないんじゃないか。
意味のうえでは「要請」でちゃんと通じるところに、なぜ「自粛」という矛盾する言葉をくっつけるのか。
戦争は平和なり
自由は隷従なり
無知は力なり
自粛は要請なり
三つのビッグ・ブラザーのスローガンに付け加えて並べると予想以上に違和感がなくてまたぐっと親近感を持って読んでしまう。
そんな全体主義社会において唯一、人が自由を信じていられる方法は自分の言葉で「書く」ということだ。
意識しない言葉は忘れ、記憶は操られるから、自分の言葉で書いて残す。
目の前で作り替えられていく歴史にぼんやりと違和感を持っていたウインストン・スミスは日記帳を手に入れ、確たる目的意識もなしに「自分の言葉を書く」という奇行をはじめた。
そしてそれが「自由」と深く関係ある行為であることに気付いていった。
だがしかし、「自由」は別に「幸せ」ではない。
日記を書いたウインストン・スミスは自滅した。
生き残れるのは、あまり深く考えないことを選んだ人たちだ。
たいへん、興味深い結末である。
あまりにも後味が悪いので、自分自身について考えざるを得ない気分に追い込まれるのが、このディストピアSFの中の希望である。